ドリフターズのコントに「もしも〇〇だったら」というシリーズがあったのだが、もう新作を見ることは叶わなくなった。それどころか、ドリフのみならず「加トちゃんケンちゃん」「志村ワールド」のくくりも含め、ドリフが描く笑いの世界はもう遠い日の記憶だ。
皮肉なものだ。私を含めファンだった人たちは「もしも志村けんさんの感染が半年遅かったらなら→治療選択肢も治療経験値も格段にアップしたので死ななくて済んだ」とか、「もしも志村さんが生きていたら→極めて近しい関係だった上島竜兵さんも命を絶たなかったかも」など、考えても仕方ない「もしもの世界」を妄想してしまう。
もしもの世界。現実と並行して進む想像の中のパラレルワールド。「もしもあの時こうしていれば、自分の人生は大きく変わっていたであろう」というターニングポイントは誰しもあるだろう。
一方で、スポーツの世界では「たられば」と言って、もしもの世界を語ることはご法度のようでもある。つまり、「もしあの時に直球ではなくカーブを投げていたら」、「あそこでピンチヒッターを出していれば」の「たら」「れば」は、結果論であって、言っても仕方ないという訳である。そんなことに囚われていたらベストプレーはおぼつかない。
その一方で「監督の采配がズバリ、当たりましたね」という表現は特にご法度でもないようで、スポーツ中継ではしばしば利用されている。おかしくはないだろうか。このセリフにはパラレルワールドが必要不可欠なのであって、その意味では「たられば論」の一種なのである。
どういうことか。例えば野球でスターティングメンバ―に代えて登場した選手がヒットを打ったとしよう。そんなときは本当に「監督の采配がズバリ、当たりましたね」なのだろうか。もしそのように断定するとしたら「もしも選手を代えなかったら」が前提として必要であり、「その選手はヒットを打たなかった」こともまた必要となる。
また、別の角度の「もしもの世界」もあるだろう。「他の選手を代打にしていたら」だ。もしかしたらその別の選手だったらホームランだったかもしれない。
昨年開催されたサッカーのワールドカップでは日本の躍進が世界的にも話題になったようだが、ゴールを決めた選手には途中出場した選手が多かった印象がある。これを森保監督の采配がズバリだったとするならば、これら選手を先発出場させた場合、ゴールを決められなかったという「もしもの世界」の前提が必要だ。ひょっとしたらもっと楽に試合を進められた可能性があるにも関わらず、だ。
「野暮なことは言うなよ」といった声が聞こえてきそうである。スポーツ中継のアナウンスや解説が科学的ではないことは誰もが知っているといえば知っている。「この試合は120%の力を出さないといけませんよ」。科学とは無関係な(中畑さん?)解説はそれはそれで楽しい。
製薬企業で働いている人はこのパラレルワールドについて、表現は違えども肌感覚でその存在を承知している。治験(ちけん)と呼ばれる医薬品として承認するかどうかの最終試験において、このパラレルワールドをどのように作るかという課題をアタリマエのこととして認識している。
もちろん、本当のパラレルワールドを作ることは出来ない。その意味で比較対照群と私たち製薬産業が呼ぶところの実薬を処方しない症例は「なんちゃってパラレルワールド」だ。点眼薬やかゆみ止め薬の試験であれば右目と左目、右腕と左腕といった試験デザインを組むことも可能だが、一般的な医薬品の場合はまず赤の他人-双子などではなく―をその「なんちゃって」群とする。
これがどうしてパラレルワールドというのか、詳細な説明はまたの機会としたい。いずれにせよ疫学の世界では「反事実」と表現されるパラレルワールドを前提とした研究デザインで確認しなければ「監督の采配がズバリ的中」などという早まった見解は絶対にしないのである。
もしもあの時に別れなければ~、といったように歌詞にも「もしも」が良く使われる。その反対に、「もしこの人と結婚していなければ」なんて考えている既婚者も少なくはないだろう。
ただし、パートナーから「君の(あなたの)おかげで私は幸せです。」と言ってもらったときだけは注意しよう。「パラレルワールドを確認しないとそれはわからない」なんて言うべきではないのだ。それが正当な科学的態度であったにせよ。
以上
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