疫学(epidemiology)

ブログ

日本の昔話、「かもとりごんべえ」をご存じだろうか。鴨をとるというお仕事をしていた権兵衛さんがある日、100羽の鴨をいっぺんにつかまえようとして鴨の首に縄をつけたところ、鴨たちが一斉に飛び立ったため空に飛ばされてしまった、という話だ。

何せ昔話というのは口頭による伝承を経ているものなので、Web上で調べてみても完全に同じお話ではなく、話のオチまで色々とあるようだ。ただ、物語のキーとなっている「鴨をいっぺんに捕まえようとする」行為については、「善くない行為」として表現されていることがほとんどだ。

私はこの「かもとりごんべえ」の話が大好きで、権兵衛さんの100羽をいっぺんに捕まえようというアイデアは何もディスられるようなことではないのにな、とも思う。ちょっと工夫が裏目に出たからといって、また元のように1羽ずつ仕留めるべき、という反省はすべきではなく、どうしたらうまくたくさんの鴨を捕まえられるのか再チャレンジする方がよいとも思う。

ところで私は生来のズボラであることを自覚している。一人暮らしをしていた頃は食事の片づけ、洗い物、掃除や洗濯などが大の苦手で、部屋は汚れがちだった。会社でもキチンと手順に沿った仕事をしたり、スケジュール管理をしたりという種のものは得意ではなく、手順にとらわれないような、あるいはどうすればもっと効率的な手順に変更できることが出来るかといったアイデアを出すことが好きだし得意でもある。

そもそも、洗濯機や掃除機といった人類の発明は私のようなズボラな人があみだしたのではないかとも思えるのだ。なるべく楽をしようとしてその究極的先にいわゆるイノベーションなるものが待っていたりもする。

疫学(えきがく)という学問はコロナによるパンデミックのおかげ(?)で少しは世間に知られるようになったが、病気になる人を減らすために行動制限を課したり、極端には都市封鎖をしたりといった打ち手を講じる学問である。やまいだれの文字「疫」を使うが、直接的には医療は行わない。

私はこの疫学に長いこと携わってきたが、これは私のズボラな気質と相性が良かったということも関係しているかもしれない。医療行為は一人一人の患者さんと向き合うものであり、であるならば極めて優れた医師がいかに効率的に患者さんをさばくとしても一日あたりで救える患者さんの数には限界がある。疫学にはそれがないのだ。

適切な打ち手を講じるならば、100人、1000人と言わず、何万人、何億人もの人の命を救うことに貢献できる学問が疫学だ。果たしてその疫学がどのような打ち手をどういったロジックで判断するのかといったお話はまたの機会とするとして、発想はまさに「かもとりごんべい」さんそのものである。

もちろん、医療現場で頑張っている人たちをディスる気は毛頭ないし、むしろ毎日キチンと部屋の掃除をしたり洗濯をしたりすることが出来る人に対しては自身の苦手意識や無いものねだりも手伝って反射的に尊敬の念を感じるくらいだ。

以前、とある先生から「発明をするには皆が優等生というのでは出来っこない。優等生は8割でよく、残りの2割はバカじゃないといけない。」というお話を聞いて、確かにそうだな、なんて思ったところである。優等生は手順を理解し実直にそれに従うことは出来ても、奇想天外なアイデアを出すのは得意科目じゃない、ということだろう。

その意味では私は優等生じゃない側にいると確信する。権兵衛さんと同じカテゴリだ。ズボラもバカも案外と使い道があるもので、生真面目に働く人よりも優れた発明をしたり多くの命を救ったりすることだって可能である。空に飛ばされてしまうような失敗もするけれど。

コメント

タイトルとURLをコピーしました