アドラーが日本でも知られるようになったのは、岸見一郎氏の著書「嫌われる勇気」がベストセラーとなった、2014年の頃だったかと思う。
フロイト、ユング、アドラーの三人を称して、心理学の三大巨匠と呼称するそうだが、心理学という学問の創始者といわれるフロイトは基本的に精神の病を治療するために研究をすすめたのであって、それはユングも同様である。その意味では医療の一環であったといえるだろう。
一方のアドラーは当初はフロイトらと歩調を揃えていたが、主たる興味の対象は精神疾患の患者ではなく一般の人間であった。それ故に、アドラー心理学にふれて感じるのはその実用性である。
例えば彼は「人をほめてはならない」という。私たちは兄弟姉妹、後輩や自分の子供に対して「よくできたね」などと言いがちだが、それは要するに上から目線でしかないともいえる。真に到底出来なさそうなことに対して「よくそれができたね」と驚くのであれば、これはアドラー的にももちろんOKだろうが、そうでないものを「よくできたね」としたのでは、少しばかり前に流行したほめ殺しではないにしても適切ではないという指摘は、なるほどと感嘆されてしまう。
また、人は何かと無用なまでに「意味づけ」をしてしまうが、これも宜しくないようだ。卒業式やお葬式の日に雨が降ったりすると、それは何やら「悲しい雨」のようであるが、それは「雨」でしかなく、「悲しい」と紐づける意味づけは無意味というわけだ。
人の行動をドライブするのが結局のところ優越感と劣等感によるものだ、という考察も納得してしまう。そもそも現代の文脈でいうところの「劣等感」をそれとして使ったのはアドラーが初めてらしく、劣等感があるから凹んだり、あるいは克服したいから頑張ったりと、その良し悪しはともかく劣等感や優越感は私たちの行動をドライブさせる。
アドラーが立ち上げたところの、病気ではない、普通の人の心理学は、当人がそれと呼称した「個人心理学(individual psychology)」というらしい。原語である「individual」には、これ以上は細かく出来ない最小単位というニュアンスがあるようで、その意味では「最小単位の心理学」と、当人はとらえていたのかもしれない。
これだけの心理的洞察力をもった彼を社会は放っておかなかったらしく、生前は毎日のように色んなところで講演をしていたと伝え聞く。その意味ではどうして日本ではフロイトやユングと比べてその“輸入”が遅かったのか不思議なくらいだ。
ところで当人が呼称したその「個人心理学」であるが、Wikipediaなどで調べてみると「アドラー心理学」とイコールらしい。つまりは臨床心理学や社会心理学のように学問領域として発展し、様々な研究者が様々な研究を行うといった展開にはならなかったともいえるだろう。
そもそも、ここ日本においても「アドラー心理学」といえば「聞いたことある」という人は多いと思うが「個人心理学」という言葉は、どうやら浸透していないようである。その昔、JRが自らを「E電」と呼称してよ、としたお話にちょっと似ているかな。
以上
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