自民党の女性議員数名が海外研修先のフランス、エッフェル塔の前で楽しそうにエッフェル塔のポーズをしている写真をネットに投稿したところ、それが不評を買って炎上しているらしい。
無理もない話だろう。元々、公務員の“研修旅行”というのは本当に研修なのかという嫌疑が昔からある話である。また公務員というのは民間企業のような経済活動をしているわけではないので、要するに国民の税金で活動していることと相まってこのような行為は歓迎されると考える方がおかしい話である。
もちろん、研修の合間で息抜きをするというのはあってはならないという話ではないし、楽しそうな写真を撮るのも構わないだろう。それにしてもこれをネットに投稿すると社会からどのような反応がくるのか、それが全く想像できないという感性に正直、あきれてしまう。
こうした行為は承認欲求がベースになっているということは最近、世の中にも知られてきており、この議員の皆さんは社会から“承認”されるのではという想定だったことだろう。
人から承認されたいという欲求については彼女たちだけではなく、およそほとんどの人たちにとって共通の価値観ではないだろうか。もちろん私もそこから抜け出しているとは思ってはいない。
ただ、心理学者のアドラーはこの承認欲求なるものは幸せになれないということで完全否定している。仕事なり勉学なりスポーツなり、何らかの賞賛を受けそうな成果が得られたとしても、「人から賞賛される」ことは自分のコントロールの外の話である。アドラーは自分でコントロール出来ることと、出来ないことを分離せよ、さもなければ幸せになれないという。
どういうことか。例えば会社で大きな成果をあげたとしよう。そのための努力が報われたことで自分でそれを喜ぶことは構わない。しかしながら、それを上司や同僚にほめてもらいたい、という、自分ではコントロール出来ないことを欲求するべきではないということである。その逆もまた然りだ。仕事で失敗したことと、それによって上司に叱られることは自分のテリトリーと上司のテリトリーが違うのであって、上司のリアクションを気にするべきではないのだ。
この概念を私が始めて知ったのはいつの頃だったろうか、それからというもの、「承認欲求」という誘惑に対してはとにかくそれを避けるような癖をつけて生きている。アドラーはその「承認欲求」をこの世から根絶しようと思ったわけではないだろうが、減らすためには「人をほめてはいけない」ともいう。
人をほめるというのはそもそも上下関係のなせることである。アドラーは人の上下関係も否定する。加えて「ほめる」「ほめない」が人間行動として慣例化しているからこそ、人類は承認欲求を求めることがクセになってしまうというわけである。
私はアドラー心理学にふれたときから完全にこのロジックに賛同しており、故に人をほめたりすることは基本的にはしない。もちろん、仕事仲間や家族が想像を超えた成果を出したりしたときには「すごい」、と感嘆することはある。それでもほめることはもうしていないのである。
さて先日、業界活動メンバーで懇親会をしたときにリーダーである私に対してメンバーの一人から「全然、ほめてくれない」という苦情を頂いてしまった。それもそのはず、私は人をほめないことを常にしているのだし、さらにその人の仕事ぶりは常に素晴らしく、その意味で大きな成果をいつものように出しても「すごい」と感嘆することもできない。故にその人にとっては承認欲求が満たされないということで、ご不満ということになる。
承認欲求をしない、人をほめない。自分や周りが幸せになるためにこのように生きることを決めたというのに、こうした状況はどう受け止めたらいいのだろう。アドラーが生きていたら聞いてみたい。
以上
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