課題の分離(Separation of tasks)

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先日の新聞には読者からの「エレベーターの“開ける”ボタンを押してあげている私に、何もリアクションせずに先にエレベーターを降りる人がいて腹が立つ」といった投稿があった。それが贅沢な欲求なのかどうか、というのがその読者からの悩み相談である。

確かにこのような行動をする人に出くわすことはあるし、私の中の“常識”感覚からすれば会釈もしないというのは非常識だ。その一方で、では先方がオファーもしていないのに言わば“勝手なお節介”行為であるところの、「開けるボタンを押し続ける」行為をした場合、感謝の意を返してもらうべきなのかというと微妙かもしれない。

心理学者アドラーはこうした要求の心理を「承認欲求」として説明する一方で、「課題の分離」という視点からも解説をする。「課題の分離」とはどういう概念だろう。

わかりやすい“類語”でいうなら、イギリスのことわざにある「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」が的を射ているだろう。これから長旅になるし、しばらく水を飲める機会もないからといって水辺に連れて行ったところで、馬にその気がなければ水は飲まない。

子供の学力を伸ばそうとして親が色んな参考書を与えたり、塾へ通わせたりしても、子供にその気がなければ思ったように参考書は読まないし、塾もサボるかもしれない。つまり、自分のタスクと、先の馬のタスク、あるいは子供のタスクは別モノというわけだ。

あるいは「人知を尽くして天命を待つ」も“類語”といえるかもしれない。学力テストで、スポーツ競技の大会で、大事なプレゼンで、いかに自分に出来る最善を尽くしたところで必ず結果がついてくるという保証はない。

どこまでが自分の課題で、どこからが自分の課題でないかを分離すれば、おそらくストレスは大いに減ることだろう。自身の学問は幸福になるための学問である、としたアドラーの示唆は、課題の分離を学んだ以降の私の幸福度を実際のところ向上させてくれた。相手に対して不必要な期待はもうしなくなるのがクセになったのだ。

他方、「無償の愛」なんていう言葉も類語かもしれない。「愛」などというと美しいものに聞こえるが、案外と「自分が愛情を尽くしてあげたのだから」と、相手に見返りをもとめてしまう愛は「無償の愛」ではない。自分のタスクと、愛情を尽くした相手のタスクとの分離がうまくいかないと、腹が立ったりもすることだろう。

私のマンションの敷地内では、すれ違いざまに「こんにちは」とあいさつする人もいれば、しない人もいる。私もなるべくあいさつをするようにしてはいるが、別のことで気を取られていたりするとあいさつしないこともあるし、相手が“あいさつしないで欲しい”アピールをしていたら、敢えてあいさつをしないようにもしている。

「課題の分離」。この概念をもし私が知らなかったら、おそらくは自分からあいさつすることに常にストレスを感じていたように思う。「相手からもあいさつを返してもらう」、という、相手側のタスクと自分のタスクをうまく分離できていないと、“見返りをもらう”のがアベレージとなってしまい、無視されると不愉快に感じることになってしまうからだ。

相手にあいさつして欲しい、というのは「承認欲求」としても整理することができる。誰かに承認して欲しいという気持ちは私たちの皆にあるもので、私も到底ぬけだせない気がする。一方、こちら「課題の分離」であればもう1ランクハードルが低いような気もするし、私の経験から考えてみても多くの人が実践できるのではないだろうか。

以上

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