実験心理学(experimental psychology)

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ドン・キホーテと言えばもはやここ日本においては、あの有名なディスカウントストアのことしか指さなくなったようであるが、元はといえばスペインの作家セルバンテスの小説に出てくる主人公のことである。

小説の中のドン・キホーテは、騎士道の本にハマってしまい、田畑まで売り払って騎士道小説を買うようになり、しまいには現実と虚構の区別がつかなくなって自分が騎士になりきってしまう、という設定である。

世の中には様々な論考や学説があるが、自分が「きっとこうだ」「こうに違いない」という確信をもって力説したとしても、それが証明されない中では単なる妄想との区別が困難である。

とはいうものの、何らかの実験や研究をしてそれを証明できない学問領域もある。例えば、生物学の中で「この行為は鳥の求愛行動である」、などとしたところで、私たち人間が鳥に成り代わることが出来ない以上、その証明は未来永劫、不可能だ。

古生物学も然り。私が子供の頃のティラノサウルスといえば、後ろ足2本で背筋をしっかりと伸ばした2足歩行であったが、今では身体をかがめて歩いていたであろうという学説が主流である。しかも、映画「ジュラシック・パーク」が上映された頃とも学説は異なってきており、あのように速足で進むのではなく、かなりのろのろ歩きだったという。

こうした古生物学は実際を見ることが不可能であることから、「もっともらしい説明がなされたら、それを共通認識にしましょう」という約束事があるらしく、その意味では潔いといえるだろう。

それと比べたら日本史などは少しお粗末で、実際には証明することが出来ないのに、私の学説こそが正しいのだ、として他の人の批判合戦が常に繰り返される。例えば、本能寺の変には陰謀説だけでも何種類もある。戦国時代を描いた大河ドラマが放映されると、「嘘ばかりだ」として、まるで自身がその時代にタイム・トラベルをしてきたかのごとくに「実際のところはこうであった」と糾弾する人がネット上を賑わしている。

私たちが「史実」かのように取り扱っているものは、戦の勝者が自分たちの都合のよいように書き換えた可能性がかなり高そうで、その意味ではこうした疑わしい書籍を「史実」として取り扱ったとしても決してノンフィクションには成り得ない。であるならば、誰もがもっと謙虚に自説を唱えて欲しいところであり、その謙虚さが見えない学説を唱える人たちはまるでドン・キホーテのようで滑稽でもある。

心理学分野はその昔、占星術(星占い)などと同列で、簡単にいえば「嘘くさい」分野であったようである。この流れを覆して、現代のように科学として学問領域にしたのはヴェルヘルム・ヴントと言われている。彼は仮説として提示された説が本当に正しいのか、あるいは単なる思い込みでしかないのかを確認するために科学的“実験”を行うというアプローチを取り入れた。

実験心理学の父と言われるところのヴントの視点からみれば、心理学の創始者といわれるフロイトもユングやアドラーもドン・キホーテということになるのだろう。初期の心理学はウソかマコトか、その証明は試みられてはいない。確かに、フロイトの唱えた「無意識」の説明は見事ではあるが、一方で「夢判断」などは現代科学からしてみればちょっと怪しくもある。ドン・ドン・ドン・ドンキー、って感じ。

以上

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