形式的合理性(formal rationality)

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何のためにお金を稼ぐのか、といえば「生きていくため」「生活するため」であり、野垂れ死にしないためだ。

もちろん、大金持ちの人はそのような理由ではなく、「お金フェチ」なだけという人もいるかもしれないし、大谷選手のような「自己実現」を追い求める人が、結果的に「お金を稼ぐことになる」という場合もあるだろう。

ただ、お金にゆとりが生まれてくるともはや「生きていくため」などという理由を持ち込むことが難しくもなるだろう。大谷選手のように1000億円の契約成立とまではいかなくても、死ぬまでに使いきれないほどの貯蓄がある、という人はある程度いるだろう。

ウォーレン・バフェット氏は77歳のときに財産が100億ドルに達したのだそうだが、今のところは株式投資をやめるそぶりはないようである。

これはある意味において興味深い話である。日本のバフェットとも呼ばれるシゲルさんは株式投資が生き甲斐であり、究極の脳トレにもなる、ボケずに済むといった理由で死ぬまでデイトレーダーを続けるのだそうだ。

それにしても不思議なものだ。恐らく株の売買を始めた頃には「生活のため」といった側面はあったように思われ、知らないうちに「貯蓄額を増やす」そのこと自体が目的そのものになる。

もちろん、貯蓄を増やすことは悪いことではないだろう。ただ、マックス・ウェーバーはこうした合理性のことを「形式的合理性」とした。いわゆる合理性、つまり実質的合理性の反意語としての呼称である。

これは平たく「手段の目的化」とも言い換えることが出来そうである。知性を高めるための「学び」がいつしか「テストの点数でライバルに勝つ」にさしかわったり、商品やサービスの品質を高めるための検査・検閲がいつしか「ミスを見つけるために生きがいを感じる」人を生んだりすることは“あるある”である。ヒトのミスを見つける“達人”にまでなってしまうと、もはや「よりよい商品のために」という意識はすっ飛んでしまうことだろう。

誤解されたくないのだが、私はバフェット氏やシゲルさんをディスる気持ちは毛頭ない。むしろどんなカタチであるにせよ高齢になっても生き甲斐を見つけた彼らには貯蓄とは別の意味でうらやましさがある。また、もし万が一、私が大金持ちになったとしても生き甲斐を失わずに生きていける可能性を示唆してくれていると感じている。

もし万が一、私が大金持ちになったとしても。これって、とらぬ狸のナンチャラだな。

以上

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