限定合理性(bounded rationality)

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先日、京都みやげに自宅用として買った箸置きの1つが道中で割れてしまったのであるが、それから3日も立たないうちにもう1つの箸置きも割れてしまった。1つと言わず2つということになれば、これはどうやら事故ではなく粗悪品を買わされたと考える方が“合理的”な推理だろう。

確かにみやげ物屋さんというのは基本的に常連客相手ではないし、わざわざ再度、交通費を使って苦情と取り換えの請求をするという客もいないということなのかもしれない。とはいえ、何かやるせないような、一言、苦情を伝えたいような、残念な心持ちではある。

先日、お亡くなりになったダニエル・カーネマンは行動経済学の権威であった。行動経済学を端的にいえば経済学に心理学を持ち込んだといった学問であり、そのルーツはハーバート・サイモンが提唱した「限定合理性」あたりにその源泉がありそうだ。

限定合理性というのは私たちの合理性が限定的であり、要するにトータルでみたら人間は“非合理的”な意思決定をしばしば行う生き物ということである。普段であれば同じ商品を購入するうえで、A店では100円、2つ先のB点では300円ということであれば当然、A店で購入するハズである。ところが、その合理的な意思決定がしばしば狂ってしまい300円を払ってB店で買うこともある、という訳だ。

「そんなバカな」と思うかもしれないが、行動経済学分野における様々な研究がこの「限定合理性」を証明している。先の箸置きについても、ひょっとしたら高い交通費を支払って苦情だけを言いに行く、という意思決定をする人もいるかもしれず、これは経済学的にみたらやはり非合理的であって、そんな風にしてたまに私たちは合理的ではない判断をする。

従来の経済学では“人は常に合理的な判断をする”という前提で成り立ってきたこともあり、行動経済学の黎明期には従来の経済学者からの批判も多かったと聞く。行動経済学者はこうした「常に合理的な判断をする」という、実際にはアリエナイ生き物のことをホモ・エコノミカス(経済人)として実際の人間とは区別する。

ではそのホモ・エコノミカスなる人物像がもっとも賢く、私たち「限定合理性」人間は愚かなのか、といえば案外とそうでもないらしい。アマルティア・センは常に合理的な言動を繰り返すことで、他者からの信頼を獲得できない人のことを「合理的な愚か者」と呼称して批判している。

みんなで片づけをしているのに手伝わない、エレベーターでは我先に降りる、割り勘をする際には1円でも他者より低い支払い額になるよう振舞う、といったことを繰り返したその先には、その当人にピンチが訪れても誰も手助けはしてくれない。結果として得をしないというわけだ。ホモ・エコノミカスを理想として生きるというのは、人生トータル的には愚かである、というところが面白くもある。

その意味で言ったら、やはりみやげ物屋さんのようにリピーターを想定しないとしてもやっぱり割れにくい箸置きになるように工夫して貰いたかったな。真面目に商売をしていた方がきっと良いことがあると思うのだけれど、どうだろうか。

以上

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