パリオリンピックのせいで、というのもなんだが生活のリズムが狂いつつあり、体調があまりよろしくない。そうはいっても地球の裏側で開催されているところの4年に1度の大会を見るのは楽しくて仕方がない。
スポーツに関していえば、結果を先に知ってからVTRでそれを観戦するのは甚だ興ざめである。実際には競技が終了していてもその結果を知らない状態で録画をみるというのであれば、これはライブ中継と同じような興奮を味わうことが出来る。そんなこんなで、夜中の2時くらいまでは起きて、以降の試合については朝起きてから、新聞もとりにいかずして録画をみたりしている。生活のリズムが狂うのはもはや致しかない。
それにしても、どうしてこうも「自国の選手を応援する」ことをするのだろう。オリンピックが盛り上がるそのキモは「誰もが自国の選手を応援する」ところにあり、実際のところ一部のへそ曲がりやアウトローを除けば、誰もがそのように振舞っているようにみえる。
私たちが自国の選手を応援する心理については、社会心理学分野において「内集団」という言葉で整理される。要するに「自分と同じ集団の人(と、自分が認識しているならば)に親近感が沸く」のであって、これは国というカテゴリに限定されるものではない。学校ならばクラス対抗におけるクラス別に、高校野球なら自分が住んでいる、あるいは生まれ故郷の都道府県。なんでもいい。「内集団」として認識すれば感情移入し、理屈抜きで応援したくもなるらしい。
このようにして、「仲間を思う」とか、「愛国心」といった感情はしばしば「善」として崇め奉られるのであるが、心理学の研究においては必ずしもよいことばかりとは限らないことが知られている。
有名なのが「内集団の外の人たち」に対する感情である。集団の団結力は、集団としての共通の敵がいると益々、その力は強まるものである。少年を対象に行った2つの集団分けをした実験では、集団分けが完全に無作為なものであるにも関わらず、相手の集団を「敵(てき)」とみなし、内集団のみんなは「良いやつ」、相手の集団は「嫌な奴」といった感情さえ芽生えたという。
すなわち、心理学分野の整理によれば、私がオリンピック観戦で興奮するその心理は、戦国時代や戦争時代において、相手側の命を奪う者を賞賛し、ヒーローとして奉ることとあまり大きな違いはない、ということになるのだろう。
ただ、それを知ったうえで、「他国とスポーツで競い合う」のは、やはり素晴らしいといえるのではないだろうか。人という生き物は、望むと望まざるに関わらず、多少なりとも他者と優劣を競う性質が備わっているのであり、然るに何らかの形で「競う」行為は人間社会から無くなることはあり得ない。国同士が「競う」にしても、それは紛争・侵略・戦争であっては決してならないことである。“はけ口”と言ったら語弊があるが、他国と「競う」ものがスポーツであること、それは一見すると何ら必然性のない“茶番”なのであるが、私たち人間の「競う」特性を踏まえた、極めて合理的な“茶番”にも思えるのである。
以上
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