エビデンス( evidence )

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人気アニメ「名探偵コナン」をたまに家族で見る。30分番組なので、少なくとも前編・後編に分かれていないお話であれば30分で難事件が見事に解決する。めでたし、めでたしだ。

現実には難事件がサクッと解決することなどあるハズもないだろうが、これは作り話の世界の話だ。コナン少年の行く先々で当たり前のように殺人事件が起きることも、そもそも薬で高校生が小学生になることもあり得ないことであって、そこに目くじらを立てるのは野暮であるし、不満ならば視聴しなければいいだけの話だ。

事件の真相や真犯人がお話の冒頭から視聴者に簡単にバレてしまっては面白くはないことから、様々に創意工夫がされており作家・脚本家の発想力には頭がさがる。先日の放送回は、これだけでは十分な証拠とはいえないだろうといったところだったのだが、犯人がちょっとあわてて自白してしまい、「今の“自供”を録音させてもらいました」といった体で動かぬ証拠となった。

エビデンス、という言葉はもはや「証拠」と翻訳しなくても日本で通じるようにもなったので、仕事やアカデミア活動の中ではカタカナ表記で使うのが常である。お国が違うので日本語の「証拠」と完全に同一な意味でもなさそうで、ネットで調べてみると「科学的根拠」という訳もみつかる。また、「your basis for belief or disbelief(信じる、信じないの基礎となるもの)」といった、ちょっと哲学的(?)なのもある。

この”舶来品“の「エビデンス」という言葉・概念なのだが、個人的には日本でのその使い方に少々というか、あるいは大いに不満がある。それは「証拠はあるのか?」というニュアンスでの「エビデンスはあるのか?」という使い方である。

本来エビデンスは「あり/なし」で二極化して使うべきものではないだろう。むしろ確証度のように、濃い、薄いのグラデーションでとらえるべき概念であり、確率論的な使い方がしっくりくる。例えるならば昔の天気予報のような紋切り型の「明日は雨でしょう」というのではなく、「雨の降る確率は80%です」みたいな使い方だ。

例えばコロナによるパンデミックに際してもその初期には政策決定に際して「エビデンスはあるのですか?」→「初期なのでエビデンスがあるハズがない」といったやりとりが聞かれたがこれは間違いだ。「証拠」というには心許ないが、「他国での例ならばある」とか、「実験室ではうまくいった」というのも、その確証度は低いながらもエビデンスの類なのであり、「あり/なし」でいうならば「エビデンスあり」だ。

また、「どれだけ数があればエビデンスと言えるのですか?」という問いも的を射てない。例えば小児への処方成績がほとんどない医薬品において副作用リスクが気になる場合、「過去、3例に処方したが副作用は0例だ」も確証度は低いながらエビデンスだし、「日本人小児での処方は0例だが、欧米での100例処方では10例に皮膚炎が出た」もエビデンスだ。

ここには数の大きさだけではなく人種差や国の慣習の違いなどもエビデンスの濃い、薄いに関わる。疫学でいうところの「(これまでに得られた結果の)一般化できる可能性」は数の多さとは違う視点である。

白か黒かハッキリさせることが大好きで、確率が大嫌いという人も多いようだ。もちろん、刑事事件の場合は「雨の降る確率は80%です」のような確率論で完結させることは出来ない。名探偵コナンでは「真犯人はこの3人の中の1人だ」という場面がしばしば出てくるのだが、現実にも「この2人しか物理的に真犯人は有り得ない」とまではわかっても、それでは法で裁くわけにはいかない。仮にA氏が9割怪しく、一方のB氏の怪しさは1割であったとしても、A氏を禁固9年、B氏を禁固1年とすることは許されることではない。

「真実はいつも一つだ」というのはコナン少年の名ゼリフだが、前回放送分のように証拠不十分で、その不足の埋め合わせに「自白」を使うということは現実の世界でもよくあることだろう。しかしながら、そこには冤罪事件でしばしば取り上げられるところの、圧力による「自白強要」の可能性を0%とするのは科学的立場としては正しくないだろう。然るに、エビデンスを「あり/なし」とせず「濃い/薄い」としたのではほとんどの事件が解決しない。困ったものだ。

以上

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