BL0107 生得論( nativism )

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自分が子供の頃に夢中になったウルトラマンや仮面ライダー、ゴレンジャーといったものが形をリニューアルしつつも未だ健在なことに驚いている。当時の記憶では毎日何らかのヒーローものが放送されていたと記憶しているのだが、こんなにも長く続いているのには何らかの理由があるのだろうとも思う。

例えば、ウルトラシリーズは正義ヒーローものではあるものの、俗にいう「ウルトラ怪獣」のデザインが秀逸で、それぞれに独特の魅力がある。バルタン星人、メトロン星人、メフィラス星人、ダダ、といった“人間型”のものから、ナース、ブルトン、キングジョーといった、星人でもなければ怪獣っぽくもないものまで様々だ。

ちょっと残念なのは、こうした人気のウルトラ怪獣の多くがウルトラセブン時代、つまり私が幼少の頃のキャラクターが多く、あまり最近のキャラクターで同様の人気を博していると言えるような怪獣がいないことだ。見方を変えれば、それだけ当時の怪獣デザイナーが優れていたということでもあろう。

最近のキャラの中ではベリアル、というキャラならば個人的には受け入れられる、悪くないデザインだ。簡単にいえば悪い方のウルトラマンであり、デザインの9割ほどがウルトラマンと類似するのだが、色が黒で、目のデザインがちょっと違う。

そこでふと、思うのだが、この程度の変化によって敵キャラだと認識できるのは一体、どうしてなのだろうということである。古くは「ニセウルトラマン」という敵キャラもいて、こちらはほぼウルトラマンと同じ形状なのだが、目のデザインだけがちょっと違うだけで、「悪い奴」という印象を与える。

ふとそこで考えたのが哲学分野で勃興した、生得論と経験論のバトルである。生得論とは人は生まれながらにいくつかのことがインプットされている論であり、経験論とはその真逆、全ての知識は産まれてから得る論である。

「なまはげ」の中継をテレビで見ると、鬼の仮面をつけた人が1歳そこそこの赤ん坊に近寄るだけで赤ん坊は泣いてしまう。おそらく「ベリアル」もまた赤ん坊は「悪い奴」「怖い奴」と認知する気がするのだが、もし目のデザインをウルトラマンにしたらどうなるのだろう、と実験してみたくもなる。

あるいはニセウルトラマンくらいの違いであれば案外と敵キャラとは認知しないかもしれない。その境界線はどのあたりだろうかという話である。

何れにしても「なまはげ」の中継を見る限りにおいては、人はそのすべてを経験によって修得するという説は正しくないようにも思える。

ウルトラマンは味方で、ベリアルは敵。夕日を見ればやはり美しく、蛇をみたら恐怖を感じる。こうしたことは私たちが生まれる前に備わっているように思えるのである。

以上

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