サイコロはどの目が出る確率も同じく6分の1であることは誰でも知っている。かといって、では60,000回、サイコロを振ったら全ての目がちょうど10,000回出るなどということが奇跡だということも直感的にはわかる話だろう。
メンデルの遺伝の法則で示された実験データが、このようにあまりにも“出来すぎ”だと指摘したのは統計学者ロナルド・フィッシャーである。ダーウィンのデータもまた後の世では“出来すぎではないか”、つまり実験誤差があまりに小さいという指摘がされている。
さて、もしメンデルやダーウィンが仮に意図的にデータをねつ造していたら、あなたは許すだろうか。科学に立脚した立場であれば「決して許されることではない」となるだろうが、結果的にこれだけの成果を後世にもたらしたのだから「許されるべき」という考え方もあるだろう。
このような後者の立場をとる人のことはマキャベリストと呼称する。「目的のためには手段を問わず」としたマキャベリの「君主論」“支持者”というわけだ。
「嘘をつくのは常に悪いこと」としたのは哲学者カントだが、一般的には「嘘も方便」という考えの支持者の方が多いようにも思え、然るに私たちは誰もがマキャベリストということになるかもしれない。
只今、最も世界の方向性を揺さぶっているといわれるプーチンもトランプも「目的のためには手段を問わず」の最たる体現者ともいえるだろう。こちらに有利な折衝をするために“何をしでかすかわからない人物”と世間に認知させる戦略、「マッドマンセオリー(狂人理論)」もまた「君主論」由来といわれる。
ただし、「君主論」が本来伝えたかったことはどうやら私たちが理解しているところの非倫理性のようなニュアンスというよりもむしろ自己犠牲的な、むしろ倫理的、人道的な色彩があったようでもある。
例えば、楽しい会話を展開させるために私たちはあえて失敗談を優先的に話し、実際よりもドジな、おバカな人物に見せかける。さしてうれしくもないプレゼントに対して大げさに喜ぶ。これは、相手を喜ばせるためという目的のための“手段を選ばない”ウソともいえるだろう。
私も講師として疫学や統計学を教える際には“ウソ”をつくことがある。一部のまれな例外を最初には伝えることをせず、まずは大枠を理解してもらうために例外など無いかのように教えるのだ。
もちろんこれは「受講者に理解してもらう」という目的のための“ウソ”だ。然るに、何らかのタイミングで「例外もあります」という話をしたいところではあるのだが、大枠も理解していない人にとって同時に例外を理解するのは難しいことがよくある。そうだとすれば、一部の例外を説明出来る機会がなく、「あのときの説明は正しくは無かったですよね」と言われるかもしれないということになる。
私の知るところでは学者先生はこれが出来ない。「間違ったことを教えた」などとされるわけにはいかないからだろう。結果的にごく一部の例外を同時に説明されるが、たいていの場合、その例外を正しく説明するのは厄介であり、大枠よりも入り組んでいるし説明に時間が掛かる。結果として受講者の大枠理解は全く進まないということになってしまうのである。
マキャベリストと言われても構わない。受講者にとって実りが多いならばそれでいいではないか。
以上
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