先日、友人に誘われて大学のキャンパスに伺わせて頂いた。オープンキャンパス、ということでもないのだろうが、経営学部の活動として実際の経営課題に対する対策を学生らがポスター発表する、という課外授業を見学できるという貴重な機会であった。
お題は、このところ社会課題としても着目されているところの若手社員が入社して3年ほどで3割もが退職してしまうという、その問題に対する対策を講ずるというものである。学生なりに色々とアイデアが出され、大変興味深いものではあったが、まだ中間発表段階ということもあって実用性のある案にまで昇華するのはこれから、といった印象であった。
企業にしてみれば、折角採用した優秀な人材がこんなにも早期に退職してしまうのは損失が大きく、どうにか食い止めたいというのは痛いほどわかる。そうはいうものの、退職するという選択肢があることは自由社会においては大切なのであり、強制的に退職を禁止するわけにもいかない。解決、とまではいかなくても現状よりも少しでも改善されるアイデアが学生たちから出てくるのを待ちたいところである。
そもそも論として他人を自分の意のままに動かす、というのが簡単ではないことは誰もが経験値と知っていることだろう。子供に勉強して欲しくても子供は勉強しない。部下にもっと仕事をやって欲しくてもそうはいかない。退職しないで、と願っても退職してしまう。経営学の名著「人を動かす」(D.カーネギー著)というタイトルにもある通り、他者に自身が望むことをさせるというお題は昔からも、またこれからもずっと人類の課題として存在し続けるに違いない。
人を動かすという策に対して古代からは権力者による暴力や恐怖がよく用いられてきた。いうことを聞かないとひどい目に合うということで仕方なく命令に従うというのは、誰にとっても嫌なことだろう。さすがに現代にあってはその昔のような恐怖政治は影を潜めている、と言いたいのだが地球全体を見渡すと、戦争も恐怖政治も残念ながら未だ現役である。
こうした“外圧”によって人を動かすことを「外的動機付け」という。暴力や恐怖のようなものでなくても、「給料を与える」というのも外的動機付けであるし、「昇進をさせる」もまた、よい方向性の“外圧”なのであり、どれも外的動機付けに分類される。
もちろん、会社にとって、親にとって、あるいは社会にとって対象者に望ましい行動をしてもらうためには、動機付けはこのような“外圧”ではなく、より内発的なもの、“やる気が出る”といった動機付けであることが望ましいだろう。プレゼントをあげるから勉強してよ、という外的動機付けではなく、子供自身が当該の学問分野に興味をもって自ら進んで勉強してくれるのが親や教師としてはるかに望ましいことだろう。
その割に、どうにも「叱る」とか、「厳しく指導する」、あるいは「罰を与える」といった打ち手が良策かのような思い違いがはびこっているのは何故なのだろう。未だ体罰を良策かのように思い違いをして有罪となる指導者は後を絶たないし、会社にあっても「あなたのためを思って」などと、自分勝手な論理のもと厳しく指導する、罰を与えることが良策と思っている人は少なくない。どうしたものだろうか。
「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」とは、イギリスのことわざであったろうか。馬を水辺に連れて行くにしても、それを鞭でたたいて従わせるのは、少なくとも人間に対してはあまり良策ではないように思えるのである。
以上
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