BL0148 普遍(Universal)

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 そんなにもあなたはレモンを待っていた

自宅から少しばかり離れた大井町へは、日ごろの運動不足解消を兼ねてしばしば歩いていく。いくつかのルートがあるのだが、私のお気に入りはゼームス坂というなだらかな傾斜のある坂道を通るルートである。

その途中に「高村千恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)」なる案内板があって気になっていたのだが、この道を通るときは大抵ハッキリとした目的のあるときばかりで、遠回りしてその記念碑を見に行ったのは品川に引っ越してから5年も過ぎてのことであった。

彫刻家であり文筆家でもある高村光太郎が精神疾患を患った妻、智恵子さんのことを詠んだ詩は数多くあり、それをまとめた「智恵子抄」は日本で最もよく知られている詩集の一つだろう。中でもレモン哀歌はよく知られており、冒頭はその書き出しである。正確には「待っていた」は昔のひらがなを使った「待ってゐた」である。

智恵子抄の中で私が一番好きな詩は「あどけない話」である。「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まるこの詩を最初に私が読んだのは生まれ故郷である新潟の片田舎だったので、なるほど、都会というのは空気も汚れていそうで、自然豊かなところで育った私などが行ってみてもやはり「確かに、本来的な意味では空が無いな」と共感するに違いないだろうと空想していたものである。

ところが東京に出てきてみたらそれは全く違っていてびっくりしたことをよく覚えている。何より12月も1月も、大抵が青空である。私が生まれ育った新潟には毎年、正月に帰省するのだが、ほぼ例外なく青空ということがない。雪は降っていなくても、空が鉛色であることは普遍的であって、いわば「新潟の冬は青空が無い」とでも詠いたいくらいだ。

この「普遍」という概念はしばしば哲学の文脈で登場するものである。簡単にいえば全てのものに共通するものやことのことをいう。「生きるとは何か」「幸福とは何か」「正義とは何か」といったようなテーマを扱うのが哲学であり、それは「個人的には―」という感想で済ますのではなく、万人の共通項を見出すことを目的としているので哲学は大抵「普遍」をテーマとしているといって差支えないだろう。

故郷の空をディスるのは不謹慎にも思えるのだが、日本海側の気候としては冬の鉛色の空は普遍的といえよう。また空を見上げて雲一つないスッキリとした青色であれば「美しい」と感じることも普遍に該当しそうだ。

ただ一方で哲学はこのところピンチが訪れているようにもみえる。ソクラテスやプラトンが暮らしていた時代と比べて、技術革新が進んだことでこれまで普遍的な落としどころになっていたようなことが再考を迫られたり、初登場の哲学的テーマが登場したりしている。

例えば出生前診断はどうだろう。産まれてくる子供が産まれる前に身体的な障害があるかどうかを確認することが出来る。障害や病気のリスクの対処としてゲノム編集をすることで、不治の病を未然に察知し完治させることも現実化しつつある。自動運転の車により交通事故が生じたら、誰に責任があるのかというのもギリシャ・ローマ時代では悩んだりはしていないだろう。言論も自由であるべき、というのは“普遍的”だったように思えるのだが、ネット社会にあっては一切の規制もなく誹謗中傷を野放しにすることが正義なのかどうか疑わしくなっている。言論の自由は一旦、「普遍」の看板を下ろさなければいけないかもしれない。

技術の進歩は望ましいのだが、その度に新しいタイプの哲学的テーマが生まれてくるので、現代の哲学者も大変なことだろう。あるいはそれが面白いからこそ哲学を志しているのかもしれない。何せ「普遍」という概念さえ万人に共通の定義ではなく、普遍的ではないのだから。

以上

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