高市総理が誕生してからというもの、特に若い世代において政治への関心が高まったという話である。政治的議論や立場について語るブログではないので他意はないのだが、確かに歴代の総理大臣の中には話がわかりにくかったり、抑揚がなかったり、あるいは表情が豊かでないためニュアンスが伝わりにくかったりということがしばしばあったが、高市総理にはそのような欠点が少なく、意見に対する賛否はともかく、関心を高めてくれるポテンシャルは高いだろう。
女性総理という文脈で取り上げると、フェミニズムの人たちから色んな指摘がありそうだが、私の経験からしても一般的に男性より女性の方がコミュニケーション力のアベレージが高いということもあるように思える。何より、耳の遠くなった私にとって男性の声よりも女性の声の方がはるかに聞き取りやすいし、その意味でも性別によるコミュ力のアベレージの違いは生来のものなのかもしれない。国際会議の中にあっても女性のトップはまだ少ないため、他国の首脳も男性の総理より認知がしやすいのではないか、そう思ったりもする。
政治への関心が高まったことで、ネット社会の今は“にわか政治評論家”のごとくに、たくさんの人がSNSなどを通じて政治の話をするようになったようである。高市政権に対する大絶賛も多く聞かれるが、批判の声も聞かれる。これは健全なことだろう。本ブログもそうであるが、自分の思ったことを、例えばそれが強大な権力に対する批判であっても表出出来るという状況は決して当たり前のことではなく、世界全体を見渡してみると、自分の本音をいうことが怖くて出来ないという状況にある人が何億人もいるように思える。
そもそも「よい社会とは何か」ということに対しては普遍的な正解があるわけでなく、正義の反対側にはまた別の正義がある、そんな言葉が一部でバズっているらしい。ネット上でも荒らしや炎上案件は多く、人を傷つける以外に目的のない誹謗中傷は目に余る。ある程度は規制すべきという意見も多いが、それに反対する人たちが「言論の自由」を看板として持ち出したりもしている。人を意図的に傷つけてよいというような言論の自由はないハズなのだが、確かに意図していなくても私たちは思いがけず人を傷つけたりもする。
哲学者ジョン・ロールズは「よい社会とは何か」について、もしかしたら現代社会にあって一番、影響をもたらした人かもしれない。ロールズの研究テーマは正義論であり、その思考実験で提示されたところの、「ヒトはどのような身体で、どのような環境で産まれてくるのか予測することも希望することも出来ない」というのは産まれる世界はヴェールに包まれているということで、「無知のヴェール」と表現される。
簡単にいえば今どきの「親ガチャ」という概念にも近く、まさか神様がガチャガチャをして人を産みだしているわけでもないだろうが、どの国のどの地域に、どんな身体機能をもって世に出てくるかはわからないのは確かである。
ロールズはこれをもってして、「よい社会とは何か」を考えてはどうか、としている。たまたま人類の大多数に支障がないからといって、例えばスロープを作らず階段だけ作るといったようなのは不正義だということである。
無知のヴェールに対する彼の答えの“一丁目一番地”は思想・言論の「平等な自由の原理」である。人を意図的に傷つけようとする誹謗中傷は決して許されないが、自分の思ったことを自由に発言出来ない人が地球上からいなくなるといいなと、心から思う。
以上


コメント