BL0160 オッカムのカミソリ(Occam’s razor)

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今回の選挙は歴史的な自民党の圧勝で終わったのであるが、むしろ中道連合への拒否反応であるとみる向きも多いようである。それだけでなく、いわゆるオールドメディア、つまりテレビ局が放送するニュースや新聞社の記事といったものの「負け」であるという論調もネット上ではみられるようになってきた。

確かに、以前から不思議なことは少なくなかった。高市政権となった今に始まったことではなく、自民党議員がいただいたお金を記載していないと「裏金」ということでたたかれる一方で、野党議員が記載していなければ「未記載」とされ何故か叩かれない。これはどういうことなのだろう、という疑問にクリアな答えはテレビや新聞からは全く知ることが出来ないのである。

メディアはよく国民の代表である、既存権力に対抗することが正義である、なんていうことも聞かれるのであるが、国民の多くはメディアに対して「権力と戦うため」ではなく「中立・透明」な報道を期待しているように私には思える。しかるに、未記載ならば未記載ということでそろえた報道をしなければ信用できなくなってしまう。

今般は野党の党首が「私は確かに未記載があったが、それは“うっかり”であり、自民党の場合は“ちゃっかり”だ」という選挙演説をしていたが、このダブルスタンダードがアンフェアであり、こうしたおかしな活動がどうしてオールドメディアでは全く指摘されないのかがわからない。

加えて当該の党首は統一教会から9年間も応援されていたという事実や講演会の写真などが出てきたが、こうしたこともほとんどオールドメディアでは報じられない。当人は「記憶にない」としていて、確かに色んなところからの応援があるならば覚えていないということもあり得るかもしれない。しかしながらもしそうであったとして、ではこれまで自民党と統一教会との係わりを断罪する活動をする際に、秘書らに「自分は統一教会とはかかわっていないよね」と確認をしてからこうした他者批判を始めるべきだろう。そのように考えてみると、やはり自身が関わっていたことを“しっかり”知っていたうえで、他者批判をしていたと考えることが自然である。

それにしても統一教会だけでなく、そもそも創価学会の組織票がどうであるかといったような事実についてはもはやすべてのメディアがあからさまに報道するようになったのだが、これはどうなのだろう。「政治とカネ」の問題と同様、宗教は決して政治とかかわってはいけないものではなかったのか。

宗教の存在は否定するものではないが、神仏を信仰するというのは本質的なところで自身が信仰する対象を信じて疑わないというところが政治活動とは相いれないものであろう。実際のところ宗教の違いによって戦争や弾圧が生じる。自身の神を信じるならば、他者が信じる神は正しくない、相いれないということになる。

その昔は天変地異や疫病に対して今のような科学の進歩が進んでおらず、しかるに人間よりも上位の、創造主や全知全能の存在によってこれを説明するということがむしろ自然なことであったろう。ギリシャ哲学がおよそ1000年もの間に神様の脇に追いやられたのは、例えばアリストテレスの「世界にはじまりはない」というのは「世界は神様が創造した」論と相いれなかったからである。

「神学と哲学は分けませんか?」としたのはオッカムとされる。当時、神学はあらゆる学問の最上位にあり、哲学はその下層に位置していた。科学は哲学から生まれてきたものであり、何より神学が最上位という世界では今のような科学の進歩は決してなかったことだろう。地球は未だ世界の中心として、神に逆らうものは処罰され、また異なる神を信仰するもの同士で争いが絶えなかったに違いない。

この切り分けのことを「オッカムの剃刀(カミソリ)」というのだが、原文では「必要が無いなら多くのものを定立してはならない。少数の論理でよい場合は多数の論理を定立してはならない」と翻訳される。これは後の世においてニュートンが言った「自然物に関しては、事実でかつ十分な原因だけを認めるべきだ。同じ自然的影響については、できる限り同じ原因を用いて説明すべきなのだ」と似たようなニュアンスといえるだろう。

かくして、ただいま日本ではもはや宗教団体がバックについている政党をそれとして認めているのだが、果たして「政治とカネ」と同じレベルで「政治と宗教」を問題として取り上げる日がくることはあるのだろうか。カミソリよろしく、スパッと切り分けられる日はくるのだろうか。

以上

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