漫才師のNo.1を決める、という「M-1(エムワン)」を毎年、楽しみにしている人も多いだろう。私もその一人だ。今回準優勝となったドンデコルテのネタはデジタルデトックス、簡単にいえば「スマホ絶ち」がいかに健康によいのかという話から入り、でも自分は現実を直視するのが怖いから夜通しネットサーフィンをしている、というものであったのだが、これは哲学的でもあるなと思う。
哲学者ベンサムが唱えた功利主義は道徳哲学における最高峰と言ってもよいだろう。私たち人間は誰もが自身が幸福になることを目的に生きているのであり、すなわち社会の在り方は人類の幸福の総和を最大にすることを目的とすべき。概して言えばこういったニュアンスで功利主義は語られる。
功利主義というのはもう少し複雑なようで、このように現代で受け止められているところのいわゆる「最大多数の最大幸福」というのは功利主義の中にあっては総量功利主義、つまり効用(経済学分野でいうところの幸福)を和算するというのであり、他にも規則功利主義だとか平均功利主義だとか、後の哲学者が発展させながら功利主義たるものは整理整頓されている。
直感的には合意したくなる「最大多数の最大幸福」は、社会福祉の視点からは欠点があることが指摘されており、それは弱者救済の視点の弱さである。生まれつき目が見えない人、車いすの人などを無視した街づくりは最大多数の最大幸福を目指すかもしれないのだが、自身がそのような弱者である確率もあったであろうことを考えよ、としたのがロールズによる「無知のヴェール」である。すなわち産まれてくる際の障害や出生地などはガチャであり、それを前提とした社会を作る方が宜しいというのが現代社会においての共通理解であるといえよう。
それでもなお、功利主義なる概念は否定されたのかといえばそんなことは全くない。どの選択肢をとっても100%、誰もが満足し幸福になるわけではない、といった局面において私たちは功利主義の原理で妥結することをしばしば許容する。
アメリカによるベネズエラへの爆撃が非倫理的なのかどうか功利主義でみたならばどうだろう。それを指示したトランプ大統領に対して「こんなことをして自分がノーベル平和賞に相応しい、と言うなんてあきれる」という声がある。確かに100人の命を奪ったというのだから、無実の行為であるハズはない。その一方で、腐敗政治が続くベネズエラでは不正選挙によりおよそこれからもずっとマドゥロ政権が続くことを世界中が憂慮していたという背景事情もある。反政府運動をする人に対して非人道的な仕打ちをしているとして、マドゥロ政権に反旗を翻したマチャド氏がノーベル平和賞を受賞したこともまたそれを象徴している。ベネズエラのこの惨状に対してでは、国際社会が手をこまねいていていいのか、どんな対策があるのかと考えた場合、アメリカによる攻撃も「悪いことだ」と決めつけるのには気が引けたりもする。100人の死を軽視するつもりはないのだが、「最大多数の最大幸福」実現のための理があるようにも思えてくる。マチャド氏の拘束によって現有政権を嫌って国外へ退避したという数百万人、反政府運動に関わっていたとして迫害を受けていた人たちがどれだけ救われたことだろう。
医薬品やワクチンもまた然りである。副作用0%なる目標は立てるべきでもなく、およそ副作用を0%に近づけようとすればするほど肝心の効き目がどんどん鈍くなるのが常である。コロナワクチンによる心筋炎リスクが問題となったが、それは10万人に対して2人ほどの発生であるらしく、一方でワクチンによって罹患しなくて済んだ人、死ななくて済んだ人はおよそこれよりもはるかに多い。
もちろん、副反応死、副作用死に対して「仕方がないとでも言うのか」という感情的な反論はあるだろう。ただ、この反論者にあっても、ではどのような方法がよいというのかと問いただしてみれば世界中から医薬品とワクチンを排除せよといったような極端な思想の人でもない限りおよそ納得性のある代替手段などは持ち合わせていないだろう。
功利主義の色眼鏡でみる世界が美しいわけではない。自身を客観視すれば不幸になるばかりならば、ドンデコルテの漫才ように現実を直視しない方がよい、という主張はどこか説得力があり、それがM-1準優勝ということなのだろう。現実をスワイプ、スワイプ。
以上


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