数学教育学(mathematics education)

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小学生時代の国語、算数、理科、社会から、高校生、大学生時代の英語などの外国語、社会学、建築学、医学、薬学、看護学など学問領域は数あれど、「算数」「数学」に関しては特別な特性がある。それが「数学教育学」だ。

他の教科はいざ知らず、こと「算数」となると苦手意識があってビビる人も多いだろう。何せ積み重ねの学問なので、他の教科とは違ってどこかで理解不足のほころびが生じると、その後の授業はもうついていけない、地獄絵図になる。

教える側も然りだ。自分の妹や弟、あるいは子供に勉強を教える段になって、他の教科に関してはただ知っていることを伝える体で済むのに、算数を理解させようとなると骨が折れる。

ミカンだとかピザだとか、「太郎君」だとかを登場させ、6分の2が3分の1に等しいことや、時速10キロの自転車が徒歩の太郎君をいつ抜くのか、教え方に苦心する。

「数学教育学」はその意味において必要な学問領域となったのだろう。他の教科では見られないところの、「教育の仕方のために特化した学問」である。

ところが算数や数学を教える技術がこのような体系だった学問になっているということはほとんど知られていないようだ。これは悲劇である。結果として日本では算数については算数が得意な人が、数学は数学が得意な人が教えるというのが常である。

もちろん、「得意な人が教える」ということはそれなりに理にかなっているともいえる。何せ「得意」と「興味がある」は親戚関係にあって、故に得意な人というのは引き出しが多いからだ。専門家は様々な疑問に答えることが出来る。不得意な人ではこれは無理だ。

一方で、コーチングという視点に立ってみるとむしろ合理的ではないところもあるだろう。「名選手、名監督にあらず」といったように、往年のスーパースターが必ずしも名監督にはなりえない。要求されるスキルが違うからだ。

日本では病院経営を当該の病院におけるスター医師がいずれ担うというレールがあるとも聞くが、名選手が名監督とは限らないように、医師としての技量が病院経営の技量と相関しているとも思えない。これも同じような図式といえるだろう。

また、「スキルが違う」だけで済まされないのが数学教育の厄介なところだ。算数・数学の得意な人は、そもそも分数の割り算やサイン、コサインにつまずいたりした経験がない。自身はつまずいていないのだから授業はどんどん、どんどん、生徒を置いてけぼりにして先へ進むというわけだ。

私の周囲を見渡しても、数理学に明るい人にはある種、天賦の才に恵まれている人ばかりに見える。私の中での常識では、“2次元が平面、3次元が立体”というところまでは学習が進むが、では4次元ってなると、例えばどうゆうことよ、とつまずく「べき」だと思えるのだが、それがない。天賦の才があれば何次元だろうがへっちゃらだ。4次元(4時限)の後は給食時間だ、などとおちゃらけたりしない。

脳に障害をもつ「サヴァン症候群」なる病気の人の中にはギフテッド、つまり「天才的能力」を所有する人が多いと聞く。10桁×10桁の掛け算もできるし、辞書も1週間あれば全部暗記できる人もいる。このような人が上手に算数の掛け算を教えられるとは到底思えないのである。

さて、私は今どきの言葉でいうところのデータサイエンスに近い分野でこれまでお仕事をさせて頂いたところである。とはいっても実際の集計解析や分析業務をしていたのは若かりし頃で、教える方に回って久しい。プログラミングの技術もサビついている。

さて、どうしてこうした教育研修の講師のようなお仕事がしばしばオファー頂けるのだろうと考えてみると、、、恐らくその天賦の才が無かったからに違いない。才能がないというのもある種の才能ということである。

以上

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