BL0168 自由の刑(Condemned to be free)

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人はよく”もしも”の世界を妄想するものだ。あの時、こうしていたならばとか、あの時、こうしなかったならばとか妄想して後悔しても仕方がないのだが、そういう性質なのだから仕方がない。その逆に、あのとき出会っていなければ今のような幸せな暮らしを得ていなかったという“運命の出会い”もまた「出会っていない」という“もしも”の世界を妄想するからこそ運命的だといえる。

30年も務めていた会社を退職して半年ほどが経った。私の場合、「もしもの世界」というのは「もしあの時、退職していなかったら」ではない。むしろ「もう少し早くに退職していたならば」という妄想である。

また一方で今でも妄想するのが「無職」の想像である。今は自分の経営する会社で仕事をしているのだが、それをしないで「無職だったらどうだろう」と想像するのだ。これは過去を振り返ってみるということでもなく、今現在も進行形のパラレルワールドの妄想である。自分が起業し経営しているのであるから、いつでもそれをやめてしまうという選択肢がある。それ故に、YouTubeなどで「60歳で会社をやめた私」みたいな動画をみたりして「無職とはどういったものか」を想像したりするのである。

人間という存在が自由の刑に処せられているとしたのは哲学者サルトルである。サルトルは当時の常識であるところの「神の存在」を真っ向から否定してはいないようだが、私たちの言動についてまで神は関与しないとした。その前提のうえで人間は自らの行動を全て選択しなければならず、結果に対する責任を背負い続ける宿命から逃れられないという根源的な不安があるとしたのである。

確かに、「自由の刑」について思い当たるフシはある。例えば小学校のときの写生大会では「学校の門を描きなさい」と言われると子供たちからは不満も出ないが、「どんなテーマでも構いません」と言われてしまうと「えー、困る」となったりもする。直観的には自由であることはハッピーなはずなのだが、今日、何をするのか、明日は何をするのかは自分で判断をしなければならず、それによって生じたことに責任を持たされると考えるとちょっと気が滅入る。

その意味では務めていた会社を辞めたこと、起業をしたことの全てが自身で決めたことであり責任を負わされるという“刑”に処されているということになる。そうではない、やむを得ない、運命の導き、神の示唆があったのだとしたくもなるのだが、そういったこじつけがどうも思いつかない。

だからといって不幸なのかといえばそういうことでもない。先日、友人が「私の父は身体を壊して仕事を辞めてから、生きている意味がないといって毎日パチンコしている」と話してくれた。当の本人は「いつ会社を辞めても全然ハッピーだ」といっており、その人は女性だったので、ひょっとしたら退職後の「無職」の受け止め方は特にここ日本では性差もあるのかな、なんて思ったりもする。

かくいう私も無職になることが「自由の刑」になりそうで少し怖くもある。もっとも仕事を続けるという選択を自らがしているということもまた、サルトルに言わせれば自由の刑ではあるのだろうが。

以上

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