自由、フリーダム。基本的にはハッピーな言葉だ。「不自由」なんてまっぴらごめん、それが私たちの直感であろう。働く動機として、お金を稼がなければ家族を養えない、生きていけない、となればそれは経済的に「不自由」なのでアンハッピーとなる。クズ亭主と離婚したくても自分で稼げる自信がないせいで離婚できないというのも経済的な不自由であってこれは不幸だろう。
それ故に私たちは基本的に「自由への逃走」を試みたくなる。義務教育という“強制”に抗って、学校へ行かなくなったり盗んだバイクで走りだしたりするのは「自由への逃走」といったところだ。
その一方で真逆の、「自由からの逃走」という人間心理をあぶり出したのは哲学者フロムである。案外と私たち人類は自由であることを持て余してしまって、ちょっとした不自由を求めたりする生き物である。
例えば服装。以前、務めていた会社では本社勤務とは違って研究所ではユニフォームがあったのだが、研究所勤務の人たちに聞くと「かえってユニフォームがあった方が服装で悩まなくて済む」と言っていた。最近は特に実感するのだが、以前のようにスーツにネクタイというスタイルがビジネスとして当たり前だった時代と比べて、今日の仕事は何を着ていくのが正解なのか迷うことが多い。カジュアル過ぎてもいけないが、ネクタイをすることでむしろフランクな雰囲気を壊してしまう恐れなども気にしてしまうからである。
また、職業選択の自由も案外とアンハッピーだったりもする。明治維新によって武士なる職業が消滅したときに武士だった人は大変、困惑したと聞く。奴隷解放運動により奴隷制度が無くなったときに奴隷だった人たちは明日から何をしたらいいかと悩み、むしろアンハッピーに受け止めた人も多かったと聞く。
飲み会の幹事さんはどの店を選ぶかにあたかも選択肢、自由があるように見えるが、選んだ店や参加費、料理の質などに責任を負わされ文句を言われたりするので、一般的にはやりたいものではないだろう。むしろ自由が奪われ、行く店も参加費も“命令”されたうえで参加し、「いまいちだった」などとすれば、店の選択をしなかった自分として“被害者”を気取ることが出来る。
フロムの「自由からの逃走」というのはもっと重大な帰結についての論考であり、第一次世界大戦によって「自由」を得た市民が、その居心地の悪さにストレスがたまり第二次世界大戦の勃発へつながったという考察にもこれが採用される。むしろこれが言いたいからの「自由からの逃走」である。職業選択も住む場所も何もかも自由だと、飲み会の幹事さんのように選択に自己責任が生じてしまう。故に強固な政治活動を指導するナチスの台頭を人々は歓迎する等々。詳しくは原著「自由からの逃走」あるいは解説書などを参考されたい。
私の場合、社会人になった時点で数百万円の奨学金の借金があり、その意味で社会人になってからしばらくの間は経済的な自由もなく「自由への逃走」に憧れたりしていた時期もあった。今では年金の繰り上げ需給といった選択肢もあって特に働かなければならないということでもなくなったのであるが、そのうえで「働く」という選択肢をとっている。もしかしたら全く働かないという方が幸せだろうかと想像してみるのだが、なんだかそんなに幸せにも思えない。もしかしたら今の「働く」選択は、「自由からの逃走」なのだろうか、そんなことを考えたりもする。
以上


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