BL0185 多数派論証(appeal to the masses)

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奇数で構成される組織というのはちょっとした意思決定をする際に都合がよい。我が家は3人で構成されていて、ランチに行く際などはA店が良いかB店が良いか、多数決で即決することができる。これが4人家族だったりすると意見が2つに割れたりして面倒になる可能性がそこそこある。

もちろん、奇数であることの弊害がないわけではない。過去に家族3人でA店に行ったことがあったとしても、それを私だけが記憶していて「A店には行ったことがある」と訴えても、他の2人が覚えていない、となれば我が家では「A店には行ったことがない」というのを“事実”として採用することもある。もちろん私としても「ほら、3年前のあのときにちょっとだけ立ち寄ったじゃないか」くらいの主張をして家族に思い出してもらう努力はすることもあるのだが、それで思い出して貰えなかったらもういいや、なんていうことで「A店には行ったことがない」とするのである。

論理学の世界では「間違い」のことを難しい言葉で「誤謬(ごびゅう)」と表現し、どのような誤謬があるのか交通整理したりするのだが、意見が多い方を「正しい」とするのを多数派論証と言ったり、「衆人に訴える論証」と言ったりする。前述のように実際にはA店に立ち寄ったことがあっても、「A店には行ったことがない」とするのはこの分類に属する「間違い」である。

そもそも民主主義にあって、今からA店に行くのかそれともB店に行くのかを決める際に多数決という決定方法を使うというのはよくある話だし、時短、タイパの視点からすれば合理的でもあろう。しかしながら地球の自転であるとか、万有引力であるとか、科学としての正しさはときとしてごく少数意見の方が正しいということだってある。

ベストセラー作家でもある教育者の工藤勇一さんは、学校教育の現場にあって民主主義を教育するうえで決して多数決というアプローチはとらなかったという。多数決の民主主義的な難点を言うならば少数意見の排除であり、多数決で決まったことを全員に押し付けることである。多数意見と少数意見の両方の尊重こそが民主主義の本質であろう。

そもそも哲学者のプラトンやアリストテレスは民主主義自体に否定的であった。民衆=愚民というわけではないだろうが、それでも選挙などでは政治的な知見も何もない有名人が当選したりするのはやはり確かに民主主義の弱点であって、多数の意見で決めることがかえって残念な結果になってしまうことも少なくない。

因みに前述した工藤先生、多数決をしないで「ではどのようにして決めるのか」という質問に対しては「例えば文化祭の出し物として、お芝居がよいという意見と合唱がよいという意見があったならば、ミュージカルを出し物として選ぶ」といった例で説明されている。なるほど、と思いながらその一方であまりにご都合主義的な事例だなとも思えてくる。サッカーをしたい、野球をしたいという意見が拮抗したときにはどうするのだろう。あるいは家族旅行の行く先を検討していて、京都か奈良かという意見が拮抗したら間をとって大阪にいくということになるのだろうか。

やはり時短、タイムパフォーマンスのことを考えたときには多数決で決めるのがベストということも多いように思えるのである。もちろん、それが多数派論証という誤謬であったとしても、「あの店には行ったことがあるか、ないか」くらいであれば仮に事実ではなかったとしてもさしたる痛手もないのだし。

以上

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