今年の甲子園、高校野球は智弁和歌山の5年ぶりの優勝で幕を閉じた。全国、あまたの高校に野球部がある中で、智弁和歌山は5年前にも優勝したのであり、プロ野球のように当時の主力が残っているというわけではないのだし、それは凄いことだろう。
子供の頃は高校野球中継というのは夏休みに欠かせない風物詩のようであって、我が家でも、友達の家でも、どこへ行ってもテレビやラジオで高校野球中継が流れていた。もしかしたらそれは時代ということではなく、私が新潟県で暮らしていたことも関わっているのかもしれない。東京都に引っ越してからはそもそも都道府県代表高としてどこが出ているかすら私だけでなく周囲も興味関心が乏しく、今回の熊本県代表の躍進といったような盛り上がりは少なくとも東京にはない気がする。
ところで、全国高校野球大会の開催について見直しの声もあがっている。それは地球温暖化に伴って真夏に炎天下で野球をするのは選手だけでなく応援する人にとっても過酷だということで、既に高野連としてもお昼時間を避けたスケジュールに変更して開催している。中には9イニングが長すぎるので7イニングにしてはどうかとか、開催する場所を屋根付きの球場に変更してはどうかというアイデアもあるようだ。
そうは言っても伝統のある大会にこうした修正を加えることには抵抗感も多いようだ。「甲子園」という言葉は野球に関わらず、クイズ大会でも何でも学生による全国大会を「クイズ甲子園」のように呼称するような、「〇〇銀座」的な使い方もされているほどに浸透している場所である。特に“古風”的な高校野球ファンは選手らの丸坊主であるとか、敗戦した高校が「甲子園の土を持って帰る」といったような伝統を無くすことには反対する人が多いのではないだろうか。
論理学の世界では「間違い」のことを難しい言葉で「誤謬(ごびゅう)」と表現し、どのような誤謬があるのか交通整理したりするのだが、「これまでそうしてきたのだから」と、従来の慣習であることをもってしてそれが正しい、とするタイプの誤謬のことは「伝統に訴える論証」と表現される。
伝統を重んじることも重要であるが、それが必ずしも正しくはないということはかなり意識していないと公正な判断には支障が出るだろう。そもそも野球、ベースボールは発祥の地、アメリカでは空の下で行われるものであり、引き分けという発想がない。その点、いまや日本の「やきゅう」はプロ野球の開催の半数が屋根付きであり、アメリカのように必ず勝敗を決めるのではなく、引き分け試合となることも許容されている。
「昔からそうしてきた」。それは伝統を守るうえで大切な価値観であるが、少なくとも「昔からそうしてきたから正しい」ということではない。そもそも学校の全国大会なるイベントは日本の全体主義、有り体にいえば個人よりも組織を重んじるということにつながっているので廃止してもいいのでは、という声もある。これは高校野球ファンの感情を逆なでしそうな意見である。
現代にあってどうすることが適切なことなのか。伝統文化を尊重しつつ、こうした意見に対しても感情的でない議論が出来る国であるといいなと思う。
以上



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