下手なダジャレを言いたいわけではないのだが、「認知バイアス」という言葉が広く“認知”されないものだろうか、と常々、感じている。要するに認知のゆがみのことで、定義的には「自分の思い込みや周囲の環境などによって無意識に合理的ではない判断をしてしまう心理」のことだ。
精神疾患の中でもこのような認知のゆがみが原因で社会生活を送るのが難しくなった、という人には認知のゆがみを是正する、認知行動療法が広く活用されている。要するに「私なんか何をやってもダメだ」とか、「みんなに嫌われている」といった、実際とは違う認知のクセが是正すれば、病気は治りました、となる。
疾患、とまではいかないレベルの認知バイアスというのは私たち皆にあるものだ。物事を受け止める際に、私たちは無自覚のうちに色眼鏡でそれを判断してしまう。私も例外ではない。
認知バイアスによって困るのが会議等における意思決定である。例えば花子さんから「私はA案がよいと思いますが、皆さんはどうですか?」と尋ねられたとしよう。これに対して太郎さんが「私もA案がよいと思います」といった発言は、文字にすればそれ以上の意味はない。
ところが、社会的な生き物である人間は複雑で、必ずしもそれが当人の本心ではないことがある。それゆえに花子さんが太郎さんの上司であったならば、参加者は「この人は忖度(そんたく)しているだけだ」とか、あるいは若い世代の2人であったなら「太郎さんは花子さんに気があるようだ」といった可能性が浮かんだりもする。
こうした目に見えないところの“仮説”を生成する性質は人間社会を生きていくうえで、有益な感性、空気を読める能力とも言えそうだ。そのような可能性を踏まえる程度ならばいいのだが、「そうであるに違いない」と、確信までしてしまうとこれは認知バイアスといえよう。
逆のケースも想定してみよう。A案を提案した花子さんに対して、太郎さんが「私はB案の方がよいと思います」と発言した際に、参加者の一部が「太郎さんは花子さんが嫌いなのだな」とか、「太郎さんは花子さんを傷つけようとしているに違いない」という認知バイアスに陥ってしまうケースだ。
こうした認知バイアスを生じた人が参加者にいると、事態は悪い方向へ向かうことになる。花子さんを擁護しようと、認知バイアスを生じた次郎さんは太郎さんに攻撃をしかけてしまう。「太郎君はA案のよいところが見えていないようだね。田舎から出てきたばかりだから仕方ないか。」といったように、わざと太郎さんを傷つける発言をしてしまったりする。次郎さんにしてみれば被害者となった花子さんを救う正義の味方、ヒーローであり、悪者は太郎さんなのだから傷つけても構わないということで何ら良心が痛まない。やれやれ。
こんな場面をこれまで幾度、経験してきただろうか。後者の例は認知バイアスの中でも「敵意帰属バイアス」と呼称されるものだ。
あおり運転のトラブルがよく報道されるが、あおり運転をしようという動機は、その加害者が被害者の言動、運転に対してなんらか「敵意のある行動をされた」という思い込みに起因していることが多いという。
仮に社会全体が「認知バイアス」を理解していたならば、こうしたトラブルも減ることだろう。また、「次郎君、もしかしたら今、認知バイアスを生じていませんか?」と言えるだろうし、おそらくはそこで会議の雰囲気を元通りに戻せる可能性が高い、、、というのはひょっとして認知バイアス?!
以上
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