とある野党の代表が政治評論家に対して「政治評論家を辞めて欲しい」といった発言をしたらしく、当該の評論家も売り言葉に買い言葉、「あなたこそ政治家を辞めて欲しい」と発言したそうだ。やれやれ。
私は科学が好きなのだが、その理由を逆説的にいえば非科学世界におけるこうしたルール無用の無益な“口喧嘩”をしなくて済むからだ。上手に工夫されたデザインで研究が実施されればAが正しいのか、Bが正しいのか、賛成派も反対派も目星が付く。もちろん、負けを認めない、持論を盲目的に信じているような研究者は「この研究には限界があって、」などと遠吠えを続けるということもあるが、社会的には“勝負あり”となる。
その点、政治的な意思決定なるものも、EBPMのようなアプローチをすることを当たり前にして、その政策論争に終止符を打ってほしいと思うのだが、今のところEBPMが当たり前になりそうな様子はうかがえない。然るに双方が「自分の考えこそ正しい」などとして、永遠の罵り合いになったりすることがしばしば生じてしまう。
マウンティングという言葉は元々、動物がその自身の方が偉いのだということで相手に馬乗りになる行為のことを指していたが、この言葉が私たち人間行動にも“応用”されるようになって久しい。確かに「俺こそ偉いのだ」行動は日常茶飯事的によく見受けられるものだ。
政策論争だけではなく、多くの人は自分に有利なモノサシをもってきて、私はあなたより偉いのよ、とマウンティングしがちである。社会的地位や家の大きさ、子供の学歴から外見に至るまで、マウンティングしようと思ったら何か1つくらいは自分に好都合なモノサシはきっと見つかることだろう。
心理学者アドラーは人の行動動機を劣等感の克服等に見出したのであるが、アドラー心理学の中ではちょっと変わった言葉があり、それが「優越コンプレックス」である。
コンプレックスといえばすなわち劣等感と重ねて受け止める人も多いだろう。実際のところアドラーも「劣等コンプレックス」なる概念を提唱しており、要するに自身に劣等感があり、そのモノサシで測られることから逃げることを指す。
一方で優越コンプレックスなるのは、ちょっと複雑で、自身に劣等感があるからこそ、いわゆるマウンティングをするというものである。相手と比して何らか引け目を感じる中にあって、当該のモノサシを少しアレンジしたり、別のモノサシをもってきて「私の方があなたより偉いのよ」とやる。これが優越コンプレックスである。
アドラーによれば人の言動なるものは大抵のところ、劣等感と優越感をベースにこれを避けたり、あるいは克服しようと頑張ったりとドライブするらしく、誰しもここから逃れられないのだそうだ。
ただ、私個人としては少しこの論説に違和感もあって、若かりし頃と比べて劣等感や優越感という感覚がかなり減弱してきているように感じている。それは人間が完成されてきたからだ、なんて思い違いをしたいところではあるのだが、どうにも「老化」の類という気がしてならない。
以上
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