哲学(Philosophy)

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「どうして空は青いの?」

好奇心旺盛な子供たちは大人たちに様々な質問をしかけてくるものだが、その中で私たち大人が的確な説明を出来るものは何割ほどなのだろう。

空が青いかどうかは空気中の塵がどうだとか、光の屈折とか光の三原則とかそういったところから科学的な説明が出来るに違いないのだが、質問した子供が「へえ、そうなんだ」と納得できるような説明が出来る自信は全くない。

それどころか、「宇宙の果てはどうなっているの?」だとか、「人間ってどうして死ぬの?」だとか聞かれたらもうたまったものではない。子供にしてみればその問いが宇宙工学分野であるとか、哲学分野であるとか、そんなことはお構いなしであり、次にどんな分野の質問が投げられるかも予測不可能である。

思えば私たち人類がこの地に降り立ったときにはこうした疑問はいくつもいくつもあったことだろう。生きていく中で「そんなことに気をとられていたのでは何も出来ない」などと言い訳をしたり、「きっと神様がそうしたかったのだ」なんてことで形而上学的な存在で強引に納得しようとしていたに違いない。現代人も似たようなものだ。

哲学者というと医者や弁護士のように“知恵者”として私たちの疑問に答えてくれたり、進むべき道を示してくれたりするという存在のように思えるのだが、その哲学者の一人である永井均先生によるとこれは大きな勘違いなのだそうである。

哲学者とはむしろ患者であり、悩める者、それもかなり重病であり、要するに誰もが気づかずに通り過ぎるような小石につまずき、そこで止まってしまうような人のことを指すというわけだ。なるほど。

そうは言っても人類の歴史はそこそこの長さがあり、例えば空の青さや月が落ちてこないことについては科学が的確な説明をしてくれるようになった。つまりは古代人ではわからなかった地球の自転や病気の仕組みなど、それが全体の半分といえるのかそれとも1%に満たない程なのかはいざ知らず、多少の“知恵”がついたというわけである。

その意味において純粋に疑問を感じるセンスは人類の進歩において欠かせないものだと言えるだろう。私たち大人は子供の疑問に対して、むしろそれをないがしろにしている態度を反省すべきだといえるかもしれない。

かくして様々な疑問のうち、「説明可能なもの」は切り取られ、そういった説明の手法が「科学」となったのである。つまりは科学とはその創世記では分離不可能なあまたの疑問から出発し、「説明不可能なもの」とは独立した一分野というわけだ。そう考えると、科学にとって哲学とは親と言っていいだろう。

その一方で、では科学が説明できない問い、例えば「人間とは何か」だとか「生きる目的は何か」だとかいったものは、“現代版哲学者”にその解答をお願いしたいところではある。

人生は短い。“哲学の病魔”に罹患していない私たち凡人は、「科学」の派閥に入ることで、ごくわずかでもその進歩に貢献できる、「巨人の肩の上に立つ」*チャンスがある。

以上

*Google Scholarのサイトに記載の言葉。あまたの研究成果は、それまでの多くの科学者による成果の蓄積があってこそのものであって、それを例えている。

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