人間拡張(Human Augmentation)

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近視で難聴。社会人大学院の授業では決まって前の方に座るのだが、それは授業に対して積極的というのが理由ではなく、後ろではスライドがよく見えないし、先生の声が聞き取れないという理由の方が大きい。

マイクで授業をするのだから前も後ろも関係ないでしょ、というのは大間違いだ。声の小さな先生はマイクを通しても聞き取りにくい。その際には先生の口の動きはかなりヒントになる。若い同級生にはそんな理由で私が前に座っているなんていう想像さえ出来ないのではないだろうか。それが若さでもある。

眼鏡も補聴器も3割負担で済む、みたいな話を聞いたことがなく、つまりは日本では病気ではないぞ、ということになるのだろう。また、近視も難聴もどうにも改善する見込みはなく、その意味では障がいの類型という見立てもあるだろう。

社会学の視座でいえば障がいというのは社会がそれを作るのだそうだ。1億総近眼、とは言わないが、もはや眼鏡をかけている人はあふれており、昔のように「メガネ君」とあだ名をつけられるほどの個性はない。何より世の中は近眼に対して不便でもない。故に障がいではない、というわけだ。

一方で車いすでの生活をしている人は何かと不便なハズだ。もし社会の半分が車いす生活なのだとしたら、そして対して不便ではないのだとしたらこれは障がいではない、社会学ではそのようにとらえる。近視を障がいとするのもしないのも社会システム次第というわけだ。然るに、視力も聴力も「社会が作った線引き」によって障がいと認定する/しないが決まる。

目が悪いので眼鏡をする、コンタクトレンズを付ける。耳が悪いので補聴器を付ける。これを障がいの類型と捉えたり、「治療中」と捉える見方もあるだろうが、全く別の視点もある。それが「人間拡張」という概念だ。

人間拡張、という概念のイメージを例えていうならば、スパイダーマンのスーツのようなものを想像して頂けたらいいだろう。先日お亡くなりになった寺沢武一先生作の漫画「コブラ」は左手が銃になっていて、これも人間拡張の一種だろう。

SFの話だけではなく、実際に義足などは技術が進んでおり、走り競争でノーマルの足の人たちに先着できるようになった。このようにとらえればコンタクトレンズも補聴器もちょっとカッコいい。

実際のところAI技術を内包するコンタクトレンズの技術は進んでいるという。そうなってくるとコンタクトレンズ全般がそのベクトルの方向、視力等を「拡張している」という受け止め方が社会的にも当たり前になるかもしれない。むろん、只今のスマートコンタクトにおいて視力補正は主たるテーマではないが。

「病(やまい)は気から」なんて言葉がある。視力が弱く毎日コンタクトレンズをする私は「病」ではなく「人間拡張」だ、と受け止めることにしよう。それはつまるところ「病は気から」という言葉そのものを“拡張”してとらえているといえるかもしれない。

以上

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