ハラリ氏によるベストセラー「サピエンス全史」によると、私たちホモサピエンスは「虚構を信じる力」があったことで生き延びることが出来たのだそうだ。
友情、愛情、恐怖、名誉、権力、、、。確かに何も見えなくても“それ”の存在を私たちは体感(妄想?)することができる。
社会学なる学問は、「社会学者」という肩書が基本的に“自称”でしかないらしく、確かにどのような専門性をもってしてその道の専門家と認められるものなのかよくわからない。まあ、疫学や経済学なども似たようなものだ。学問というのが「虚構」ともいえる。
それどころか「社会」というのは何なのだろう。そのようなものは存在しているのか、それともしていないのかという論争は有名な話である。
「社会はある」と主張するのが社会実在論である。一方で、人間は実在しており、その人間が数人あるいは数十人、数万人、そこに実在はするものの社会などというものはない、という主張も地球上から消えたわけではない。これを社会名目論と言ったり社会唯名論といったりする。
当然のことながら社会学者は誰しもが社会実在論である。社会が存在しなければ社会学など存在しようがないから当然である。
創世記の社会学者といえばマックス・ウェバーが有名であるが、デュルケームもよく知られている。氏は「自殺論」で有名であり、自殺というのは社会がそれをもたらしていることを数字で示した。より具体的にいえば、とある文化での自殺率はある値で一定であり、また別の文化においてはやはり違った数字ではあるものの自殺率は安定しているといった研究である。
疫学をなりわいとしている私にも「自殺論」は無関係ではなく、先日読んだ論文によると、産後の鬱(うつ)症状を減らすファクターは「近所に公園があること」が最重要なのだそうだ。よく効く薬や名医の診察などではなく、ホモサピエンスは人との関わり方で病気になったり治ったりもする。メンタルはいわば“社会がもたらす病気”といったところだ。
これすなわち、「社会というものが存在している証ではないか」というのが、恐らくはデュルケームが「自殺論」を執筆したモチベーションになっていたのかな、なんて思う。「社会は、ある」という証明を自らしなければ社会学、ひいては社会学者という肩書は世の中に認められなくなるのだから。
そういえば、その昔は男性限定で、ズボンのファスナーのことを「社会の窓」とか言っていた時代があった。どうしてそのように呼称していたのかすら私はわからないのだが、「『社会の窓』実在論」はどうやら消失したようである。
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