フェティシズム(fetishism)

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日本のバフェットとも呼ばれる、80歳代後半であるにも関わらず現役のデイトレーダーとして連日、株の売買をしているという人の本が売れているらしい。

既に貯蓄は18億円を超えているらしく、そうであるならば何も株の売買などせずに毎日優雅に過ごすこともできそうなものだが、本人によるとそれが生き甲斐なのだそうだ。

確かに生き甲斐があるというのは素晴らしいことだ。この人だけでなくバフェット氏であったり大谷翔平選手であったり、仮に「死ぬまで遊んで暮らせるお金がある」としても、「死ぬまで遊んで暮らす」ことが生きがいになりえるかといったら怪しいものである。

NISAのサービスを拡充するなど政府はこのところ、国民に向けてお金を貯蓄するのではなく、運用するように働きかけているが、果たして世界から“ノーリスク主義”と揶揄される国民性を変えることができるかどうか。

とかく私も「貯金することは善である」と長いこと刷り込まれてきたもので、おいそれと「お金は使ってこそ価値がある」と言われてもうまく使えていない気がする。「ゼイタクは敵である」という価値観から逃れられないのだ。

理屈ではわかっている。目の前のメニューにある1000円のラーメンは、長い慣習の中で「ラーメンに1000円も出すのか」という葛藤をしてしまうのだが、およそここで800円のチャーハンを選ぼうが、あるいはトッピングを充実させて2000円のラーメンを頼もうが、死に際になって「お金が足りない」などということにはならないだろうという確信はある。

だが、しかしである。

フェティシズムという概念を最初に唱えたのはカール・マルクスらしい。今時の「フェチ」の使い方は主に性文化における偏愛を指すものが主流であるが、貨幣なるものをあたかも神様のように崇めたてるようになってしまう、その資本主義の“末路”の有り様が、マルクスによるところのフェティシズムというわけだ。

その意味では日本のバフェットさんどころか、本家本元のバフェットさんも「貨幣(お金)」に対する偏愛、フェティシズムということになるだろうか。

かくいう私もまたそうだ。貯蓄額が増えるのは「これで老後も安心だ」とか、「いざというときの蓄え」といった合理的なものではなく、感覚的に嬉しいし、貯蓄額が減るのは感覚的に悲しいのである。

「お金フェチ」。残念な響き。やはり「有効にお金を使う」ことを心掛けねばなるまい。

以上

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