多様性を尊重しましょう、なんてことを良く聞くようになった。確かに「最近の若者は」なんて批判をしたり、高齢者をひとくくりに「老害」などとするような考えでは社会は分断するばかりでよろしくない。
一方でここに思想、特に宗教的なことが入ってくるとややこしい。人類の黒歴史を紐解くと、「宗教戦争」と呼称される紛争に限定されるものだけでなく、宗教の違いによって多くの命の奪い合いが生じたことは疑いようもなく、思想が違うからという理由で相手に何をしてもよいという考えの人に対してまでその「多様性」は寛容であるハズもない。
私が科学を好きなところは端的にいえばここにある。「ここ」というのは、世界共通言語、あるいは世界共通思想とでも言うべきところの国境、人種、思想を越えた意見の一致への貢献だ。
科学や数字が無い世界を想像してみよう。うちのクラスが学年で一番、学業成績が良いぞ、と主張するA組とB組があったとしよう。数字的な手助けが無ければこの主張は折り合うこと、合意形成がかなり困難だ。
一方、数字があればこんなことで言い争うことさえ起きないだろう。「前回の期末テストでのクラスの平均点を比べる」などで折り合いがつく。もちろん、「平均値ではなく中央値で比べればこちらが勝ちだ」とか「前々回の中間テストならばうちのクラスが一番だった」などの主張のしあいはおきるので「言い争いは起きない」とは言及できないが、言い争ううえでも筋の通ったマシな言い争いですむ。
こうした数字の処理を私は無造作に「科学」としたり「数字」とか「数値」といった呼称をしたりするのだが、英語でいえばstasticsと呼称するのが正確だろう。Statisiticsは日本では「統計」と翻訳される。
Statisticsを「統計」と日本語訳したのは誰なのか、ちょっと調べてもわからなかったが、かの福沢諭吉は当初、「政表」と翻訳していたらしいことはWeb上で見つかる。その諭吉も次第にstatisticsを「統計」とするようになったようで、「学問のすゝめ」でも記載がある。
明治30年に出版された諭吉の著作、「福翁百話」には
“いやしくもこの統計全体の思想なき人は共に文明の事を語るに足らざるなり。”
という記載がある。
諭吉もまた私たちと同じように、根拠なき自己主張では折り合いがつかないこと、そこに「統計」の数字が介在することでようやっとマトモな語り合いが出来るのだとしている。
宗教の違い、思想の違いでは命の奪い合いが生じる可能性があるのだからして、「統計」という存在は、遠からず私たちの命を守ってくれるものなのかもしれない。
以上
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