NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる!」を知らない人はあまりいないだろう。5歳の少女という設定のチコちゃんというキャラがゲストに対して、日常のありふれたことがらについてその原因や理由を聞いたうえで間違った答えをいうと「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と罵倒するエンタメ系の教養番組といったところだ。
先日、この番組について「チコちゃんの『なんで?』は最悪の愚問である」なる記事*をネットで見かけたのだが、本気で怒っているようで正直なところ笑ってしまった。たかだか5歳の少女が「どうして?」と質問しているのであるから、そのことに腹を立てるというのはどうかしているように思えたからである。
この先生の怒りの“琴線”に触れた理由について簡単に言えば、「どうしてなの?」といったたぐいの問いに対して回答は一意に決まるものではなく、その回答方針は多様であるから、ということのようである。
記事に記載の例を拝借するならば「どうしてその研究をするの?」と聞かれたときに、「個人的に興味がわいたからだよ」「たまたまちょうどよい調査対象に出会えたからだよ」「社会に貢献できるからだよ」「自分の専門分野だったからだよ」などなど、色んな回答はあり、そのそれぞれの回答はどれも正しいわけである。
「問い」というのは科学を進歩させるうえで欠かせない導火線である。「どうしてそのようになっているのだろうか?」という疑問が科学をまた一歩、進めることが出来る。例えば船出した船舶が遠くの方までいくと徐々に下側から見えなくなる様は、地球が丸いことを知らなかった人にとっては妥当な理由が説明できなかっただろう。どうしてなのだろう、というという問いの延長線に地球が実は丸いこと、回っていることの発見がある。
ロジカルシンキングなる研修では「問いを5回くりかえしなさい」といった指導がされることがある。「どうしてわが社は経営不振なのか?」→「商品が売れないから」→「どうして商品が売れないのか?」→「商品の魅力をうまく伝えられていないから」→「どうしてうまく伝えられていないのか?」→、、、、といった具合である。
課題の本質を正しく認識することが出来ればその課題はほぼ解決したようなものである、なんていう格言みたいなものもあり、その意味ではこの記事を書かれた先生の言わんとすることがわからなくもない。
一方で、だからといって例えば5歳の少女に「どうしてリンゴは赤いの?」と聞かれたときに口には出さなくても「最悪の疑問だな」なんて思うような大人はどうかしている。むしろこの番組のスタッフも回答ありきの編集に逆算して問いを立てるという設定から、大人のキャラではなくチコちゃんなる5歳少女のキャラを想起したようにも思われる。
時折、街中や電車の中でさえ子供を大声で怒鳴ったり、あるいはたたいたりしている大人を見かけることがあり、とても悲しい気持ちになってしまう。子供の虐待には「どうして?」と問うたときに色んな事情が絡んでいるとは思うのだが、まずは「体も脳も未発達なのに、あたかも大人と同じという間違った認識をしてしまい、そのミスを親が許容できない」なんていう理由は含まれていそうである。
もちろん、この先生がリアルな5歳の少女に「どうしてリンゴは赤いの?」と聞かれたときに腹を立てる人だとは全く想像もしないが、たかだかエンタメ系番組が気に障るというのもどうかとは思う。
一方で、その説明は丁寧であり主張されている中身については私も大いに賛成である。問いかけることは科学にとって大切な所作であり、一回の問いではなく、幾度もそれを繰り返すことによって問題の本質に迫るための打ち手にすることが出来る、優れたアプローチなのだ。
「どうして戦争は地球上から無くならないの?」「どうしてうちは貧乏なの?」「どうして色んな動物が絶滅してしまうの?」。私たちはこうした問題に対して幾度も「何故?」を繰り返すべきだ。そうすれば「あいつが悪い」といった短絡的な原因に陥ることはないだろう。問題の本質を社会システムとしてとらえることが、こうした課題を根本から解決する可能性を高めてくれるのである。
【参考】
*プレジデント・オンラインより2023年1月22日取得「チコちゃんの「なんで?」は最悪の愚問である…「5歳児の罵倒芸」に文化人類学者が本気で怒りを抱いたワケ」
以上
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