「みんなそう言っているのだけど」。
日本語の「みんな」という言葉は便利なのだが、その曖昧さも相まって残念な“副作用”もある。はっきりと誰と誰なのかがわからないのだ。
例えばこうだ。「あの店は不味い(マズイ)、とみんな言っている。」なんて話をする人がいる。ハッキリとした物言いが出来る人は同調主義がはびこっている日本では結果的にオピニオンリーダーにもなりがちだ。
一方で、食事の際にもハッキリと物言いをするので少しばかり閉口することがある。「この店、おいしいね」ならいい。そうではなく、「この店、マズいね」なんてことを平気で言う。あまりマナーの良い態度ではないだろう。せめて「あまりおいしくないね」くらいにして頂きたいものだ。
さて、こうした物言いをする人がいつものように「この店、マズいね」と発言したときに、周囲の誰が「そんなことはありませんよ」と、果たして勇気を持って言える人がどれだけいるというのだろう。実際に意見と同じ人は「そうよね」くらいは言うだろうが、問題は反対意見、それも美味い、というほどではなくても「そんなにマズいかしら」すらちょっと言えそうにない。
当人にしてみたら自分の口に合わなかった事実に加え、一部の人の同調やうなずきがあり、しかも誰一人、反論がなかったという結果をもってして、「この店は不味いと誰もが言っている」と認識するのは自然なことだろう。かくしてレストランとして経営が成り立っているという事実を置き去りに「みんなが不味いと言っているレストラン」が出来上がってしまう。
これは裸の王様と同じ構図といえるだろう。王様が裸で闊歩していても大人たちは恐れ多くて誰も指摘できない。同調圧力、忖度という言葉は特に日本人気質という声も聞こえる。
Webサイトのリコメンド(推奨)機能、つまり広告掲載機能も割とこれに似たような性格を持っているといえるだろう。普段は私が欲しいだろう情報を先回りしてくれるという意味で効率的に振舞ってくれるが、そのあまりにも“迎合”した態度が間違った「みんなそう言っている」を演出してしまう。
例えばワクチン接種の反対派にとっては、ワクチン接種がいかに間違った政策なのかを語る書籍が紹介されるかもしれない。確かに自身にとって興味のある書籍を紹介してくれるのは有難いが、こうしたリコメンド機能があふれてしまうと、「みんなワクチン接種に反対している」ように思えてくること請け合いである。
多様性が貴ばれている昨今ではあるが、やはり私たちは自分と同じ意見ばかりをチェリーピッキング(おいしい果実だけをピックアップ)してしまう。自分の興味関心とは違う書籍を買う人はあまり見つかりそうにない。友人関係も自分の考えと近い人たちの集まりだ。その友人たちが全員同じ意見だからといって世界中が同じ意見だなどというのは思い違いも甚だしいことだ。
かくして右側の人には右寄りな、左側の人には左寄りな広告が今日もまた表示される。自分の考えは正しい、そのような勘違いが強化され確信に変わる。そうなればその正義をただすために間違った意見へは現実世界でもネット上でも攻撃を行うのが正義の行為となる。
心理学分野にフォールス・コンセンサスという言葉がある。自分の思い違いによって生じる「みんなが合意している」という間違いだ。およそ戦争やテロ、犯罪行為の多くはこのような図式で双方がまるでウルトラマン、正義の味方による正義の鉄拳かのように行われる。
願わくばこうした思い違いを増殖させてしまいかねない、Web広告のリコメンド機能はどうにか禁止してもらいたいものだと願っている。
以上
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