ミュージシャンであるボブディランがノーベル賞を受賞したのは2017年ということなので、もうひと昔前のお話であるが、当時はこのニュースを聞いてびっくりしたものである。
私が若かりし時代といえば、パンクロックのような過激な音楽だけではなく、唱歌、流行歌とは違うところのフォークソング、ニューミュージックといった分野もまた“異端児”であて、端的にいえば不良の仲間という印象があったものである。
ディランの音楽は日本の音楽シーンにも大いに影響を与えた。吉田拓郎さんや井上陽水さんなど、当時は「テレビに出ない歌手」として知られているところの、自分の世界観で歌詞を書き、それを自らが歌うというシンガーソングライターのほとんどはその影響を受けたといっていいだろう。
そんな自身の少年期からすれば“不良”であるディランが社会的栄誉の最高峰と言ってもよさそうな賞、ノーベル賞を受賞したというのだから驚きである。個人的に最初に思いついたのは陽水が歌った、「いつかノーベル賞でももらうつもりで頑張っているんじゃないのか」という歌詞である。当時のフォークソングシーンは現代社会を批判的にとらえるのが常であって、すなわちその先頭を走っていたところのディランはその意味において「ノーベル賞をとってはいけない人」として映っていたのである。
こうした“社会的栄誉”なんて何の価値はあるのか、という考えもそれすなわち「間違っている」とは言い切れるものでもあるまい。栄誉を与える人の明確なルールがあるわけではなく、白人、英語圏に偏っているという声も多い。川端康成の文学賞受賞も、ウラでは三島由紀夫の遠慮があって日本の文学者として初受賞となったという話も聞くし、その意味では曖昧模糊としており、到底「中立、公正」とはいえるものでは無さそうである。
それでもノーベル賞のノーベル賞たるゆえん、その精神には共感するところがある。何よりデュランの詩を「文学」としてとらえるなんていうのが端的なことで、だからこそノーベル賞というのは栄誉なのだといえるのかもしれない。
ノーベル賞は必ずしも当該分野の専門家に与えるというものではないというのはどうやらその発足当初からのコンセプトだったようである。中でも私がもっとも気に入っている(?)ノーベル賞の受賞者は経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンである。
心理学が専門のカーネマンが、盟友トラベルスキーとともに確立した「行動経済学」分野は、今では日本でも広く知られているところといえるだろう。認知心理学を人の行動における限定合理性―ザックリいえば合理性があるのは限定的であって、往々にして人は非合理という話―をもとに確立した人の行動のフシギをとらえた経済学の新しい分野である。
医療経済学の中身についてはまたの機会で触れることにしよう。今はただ、カーネマン先生がお亡くなりになったという今朝の新聞ニュースに向き合い、先生が社会に、そして書籍を通じて私に教えてくださった多くの知見に敬意を表しつつ、ご冥福を祈りたい。
以上
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