自由というものは基本的にハッピーなことであるのだろうが、案外とアンハッピーな側面もあるというのはこれまで多くの哲学者や社会学者が指摘してきたことである。
フロムは第二次大戦が勃発したのは「自由」が原因ではないかとしている。第一次大戦が終わった後のヨーロッパでは「これからは自由だ」と解放された気持ちになったというが、それがいつのまにやら「自由すぎることのストレス」となり、不自由へのあこがれとでも言おうか、強制力のある政治への支持が広がりそれが第二次大戦につながったという。フロムの説いた「自由からの逃走」は、本来「自由への逃走」を望むものだと思い込んでいる私たちへのアンチテーゼでもある。
また、サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」として、自分が選んだ選択肢に対して責任を負い続ける宿命というしんどさを説いている。自分が「産まれる」ことを選択していないにも関わらず、何から何まで自分で選ぶ自由があるというのは不幸だ、そんなロジックである。
アメリカのような自由主義国家と比べて、日本は比較的「不自由でありたい」という価値観が上位にあるとも言われている。何らか決まり事がある方が嬉しく、何も決まり事がないと落ち着かない。それ故に何をやってもいいよ、とされるよりもこうしなさい、ああしなさいと言われる方が居心地がよいと感じる人も多いのだという。
全体主義というのは個人の自由や権利を認めず、国家や民族、あるいは特定のイデオロギー(国家・人種・階級など)が絶対的優位に立つという思想の下、国家の意思を最優先し、社会のあらゆる側面を包括的・一元的に統制する政治体制のことを指す。典型的な例としては20世紀前半のナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、スターリン下のソ連、そして軍国主義であった戦時下の日本もそうだといってよい。要するに「不自由の権化」のようなものだ。
「欲しがりません勝つまでは」といった標語が生まれた当時の日本もそうなのだろうが、こうした全体主義なるものは一部の悪党が政権を乗っ取りそのように仕向けたとするのは、哲学者や心理学者の考察からするとかなり無理があるらしい。むしろそのような世界を世論が望んだフシもあるのだ。フロムの言う「自由からの逃走」もこうした大衆心理をうまく表している。
現代社会にあってこのような主義を歓迎する向きはほとんど無いのだろうが、それでも何らかの「不自由」に対する魅力はあるようで、例えば「言論の自由」には賛成しているのにネットへの書き込み制限やSNS利用の年齢制限などにも賛成したりもする。自由すぎるのは統制がとれないというのは確かであって、そういうのが許せない人は口うるさく自分が見聞きするものに指図したりもする。
お笑い芸人として売れなかったという、しんめいPさんの書いた「自分とか、ないから。」という本が売れているらしい。これは東洋哲学をカジュアルに紹介した本なのであるが、東洋にあってアメリカの個人主義とは全く逆の、没個性、自分よりも何らかのより大きな存在の中に自身の身を置くことは宇宙の一部となるような幸福感にもつながる感覚がある、というのは東洋では普通に受け入れられる価値観だと言えるだろう。
それ故に無批判に権力に従うこと、親や上司、自分よりも年配だというだけでその人を批判しないという態度は「善」とされがちでもある。これはいわばステルス全体主義のようでもある。思えば私が子供の頃の日本は今より全体主義的であった。何をするにも強制されていたような記憶があり、服装や髪形などを細かく指定するトンデモナイ校則は今でもあるとも聞くが、以前はそれが当たり前であったように思う。「忖度」という言葉がバズったように、その場の空気を読んで全体整合させる文化は日本人に根強く、いわばステルス全体主義のようでもある。
私はどうも子供の頃からこうしたステルス全体主義が苦手だったように記憶している。それはまた学校の先生や先輩、上司、オトナからすればアウトロー的だったのだと思う。それが今では「自分の頭で考えることの大切さ」などとされて、もてはやされたりもしている。なんだか不思議なものである。
以上


コメント