マイケル・ジャクソンはひと昔前、確かにスーパースターだったよなと、映画「マイケル」を見終えて改めて再認識したところである。その歌唱やダンスのスキルなどを鑑みてもそれは努力だけでは達成しえない、神からの贈り物のようでもあり、以降、彼のような才能は出てきていない。まさに唯一無二の才能であったと言えるだろう。
それにしても彼の父親、ジョー・ジャクソンの映画keでの描き方はあからさまに“悪人”である。このような描き方を果たして当人が了解したのかと不思議に思っていたら案の定、当人は既に亡くなっている。「死人に口なし」と表現するのは短絡的すぎるかもしれないが、ジャクソン・ファイブのように幼少期から活躍するタレントを世に出す親というのは概して野心家だろうし、一方でマイケルという才能を世に送り出してくれた“恩人”でもある。
日本でもジャクソン・ファイブによく似たアーティストとしてフィンガー・ファイブというグループがいた。こちらはリードボーカルのアキラ君が声変わりしてハイトーン・ボイスではなくなったタイミングで人気が下降したような記憶があったが、ジャクソン・ファイブのリードボーカルであるマイケルはむしろソロシンガーとして大成したというわけである。
ところで、ジャクソン・ファイブやフィンガー・ファイブのギャラの取り分というのはどうなっていたのだろう。売り上げの多くはリードボーカルによる貢献だとは思うのだが、案外と兄弟仲良く同一額の折半ということもあり得そうだ。
日本では「悪平等」という表現の方が有名だが、哲学や政治学の世界では「形式的平等」という概念がある。売り上げに圧倒的な貢献をしているリードボーカルと、他のメンバーが仮に同一ギャラであった、となればこれが形式的平等である。ざっくりいえば均一にこだわることで逆に不平等が生じているといったところだろうか。
思い出されるのがチェッカーズというアイドルグループが解散した際、その理由としてギャラの折半の問題でトラブルがあった云々という話があったことだ。当初はリードボーカルのフミヤと他のメンバーと同一ギャラであったが、以降、今度は楽器のひけないメンバーへのギャラが下げられたとかなんだとか。
お笑いコンビ、ドランクドラゴンもギャラ折半が「悪平等」として叩かれたことがあった。塚地さんが役者として受けとったギャラも、相方である鈴木さんと折半するのはおかしい、とネットでは炎上さわぎになったが、こうしたことは当人たちで了解していればよいのであって、外野が口出しするのはおかしな話でもある。ジャクソン・ファイブやフィンガー・ファイブの取り分を気にする必要はどこにもない。自分で自分がおかしい。
形式的平等の対義語は「実質的平等」である。これは「公正」の概念にも近いだろうか。よく象徴的に描写されるのは立ち見をしている複数のギャラリーにあって、背の低い子供には観戦できるように足場にお立ち台をおいてあげよう、という図式である。背の高い大人はお立ち台などなくても観戦できるのだから不要である。均一に皆々にお立ち台を提供するのは悪平等、形式的平等であって正しくないというわけである。
政策決定の際にも実質的平等と形式的平等の議論はよく登場する。昨今ではお金持ちの高齢者への医療費補助は現役世代と同じ3割負担でよろし、といった意見が多勢であるが、これを哲学分野でいえば「形式的平等ではなく実質的平等へシフトを」といったところだろうか。
私たちは他人と比べて損得の度合いをよく気にするし、自分の利得にならない政策案には反対しがちである。私もそうだ。そうではあるのだが、実質的平等、公正という概念を想起することで、思いやりのある判断に少しはシフトするに違いない。
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