東京と滋賀の二拠点生活を初めてから2年ほどになる。縁もゆかりもない滋賀県に居を構えたのは京都に出やすいということもあったが、何より琵琶湖と比叡山に囲まれた自然の地に魅せられたからだ。
窓からは琵琶湖が見渡せる。よくトンビが飛んでいて、それは窓からだけでなく散歩しているときも常にその姿が空にある。湖面に近いところでは「トンビに注意」と書かれたボードもあり、私はまだ経験したことがないが人の食べようとしているものを空から急降下して横取りするらしい。ピーヒョロロという鳴き声が特徴的で、これは東京ではまず聞いたことのない音である。
鳥は空を飛んでいるときが一番、幸せであると言ったのはアリストテレスである。いかに天才哲学者であっても、さすがに何をしているときに鳥が幸せなのかを見抜くことは不可能なことに思えるのだが、彼によれば数多の生き物にとって、そのものがもつ固有の機能を発揮しているときこそが一番幸せなのだそうだ。
同じ理由で、アリストテレスに言わせれば魚は泳いでいるときが一番幸せらしい。ならば人間は歩いているときが幸せなのだろうかといえばそうではない。歩く、というのは人間固有の機能ではないからだろう。
何だか変な理屈である。であるならば「鳥」を「鳥」と分類せず、トンビやタカ、鳩やウグイスに分類したら空を飛ぶ生き物はたくさんいることになって、もはや飛ぶ機能は固有ではないではないか。魚もタイやヒラメに分類したら同じ。鳥の中にはダチョウやペンギンのような飛ばない鳥もいる。
ならば人間も「哺乳類」としてみれば地上を歩くということは当該生物固有にも思えるのだが、紀元前に亡くなった彼に問いただすことも出来そうにない。彼はその幸福状態、「固有の機能を発揮しているとき」のことをテオリアと名付けた。そのうえで人間固有の機能は理性なのであり、それは「感情」のように他の動物種では見られるものではない、故に「理性を発揮しているとき」がテオリアであり、「人間が一番幸せな状態」なのだそうだ。
なるほど。そうだとすれば大谷選手は野球をしているとき、メッシ選手はサッカーをしているときが一番幸せということではないということになる。ヒトは全て、「理性を使って何かを探求しているとき」こそがテオリア。
十分に合点がいくわけでもないが、確かに紀元前には野球もサッカーもない。いまアリストテレスが存命であったら、テオリアの定義は変わったのか、それとも変わらないのか。何となく、やはり「理性を使って何かを探求している状態が人の幸せ状態」というところは譲らない気もするのである。
その点、私の生活や仕事ぶりを振り返ってみると、こうして執筆したり、あるいは講演したりといった経済行動はほぼほぼ「理性を使って何かを探求している状態」である。ヒト全てには該当しなくとも、私個人にとってテオリアなる概念はしっくりとくる。執筆も講演も、基本的には創作活動であり、どのように構成し伝えれば相手が理解してくれるかという思考は極めて理性的活動である。テオリアはセオリー(理論)の語源にもなったというが、確かにセオリーのようなものもそこに内在しているように思える。
哲学の偉人、アリストテレス。才能豊かな彼への尊敬の念は、彼の思想を追いかけるという意味で理性的なもののようにも思うのだが、もっとシンプルに私はアリストテレスが好きである。理性的にではなく、感情的に。
以上


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