長年勤めてきた製薬企業を退職してからというもの、比較的、自由に発言できるようになったと感じている。私の周囲からすれば勤務していた頃から自由に発言していたではないか、とも思われているようなのだが、当該企業の社員という立場を私なりにわきまえた言動をしていたのだな、というのは退職した今となってわかるのであり、当時は無自覚的でもあった。
例えば、ということでいうのであれば企業社員の「真面目過ぎ」であろうか。自身の務めていた会社に限ったことではないのだが、会社の方針、上司の指導、手順書に対してあまりにも無批判すぎる人が多く、それが嫌であったことをこのところは正直に白状できるようになった。
先日は某社のオファーを頂いてインタビューして頂きその記事がネットでも掲載されている。その中で某社のインタビュアーが興味深く感じてくれたお話が、「悪の陳腐さ」というものである。
哲学者アーレントは、このような会社の方針、上司の指導、手順書に対してあまりにも無批判すぎることを「悪」とした、そういう話である。日本の価値観、常識的にいえばこうした無批判の言動はむしろ「善」とされると思うので、一回、聞いただけで「悪の陳腐さ」は恐らくハラオチしない。儒教の歴史が深い日本では親や上司の言うことに対して異論を唱える方が「悪」、従順に言われたことをするのが「善」だろう。
アーレントの「悪の陳腐さ」はナチスドイツの将校、アイヒマンの裁判を通じて世界的に広まった概念である。上司に従順に従い、数えきれないユダヤ人の虐殺に関わったアイヒマンはその裁判の中で全く罪の意識がないこと、また私たちが知るところの悪魔的な素養や乱暴さのカケラもない、いわゆる普通のお父さんであった。
何故にそのような人物が多くの虐殺に関われるのか。罪悪感がないのか。アーレントの考察では「自分の頭で考えない人」というのは、例えばそれが慈善事業団体であれば慈善事業に貢献するのだろうが、ショッカーのような世界征服をたくらむ悪の秘密結社であれば優秀な戦闘員として悪行を繰り返す。故に自分で考えず、責任も負わない従順な人はそれが悪徳行為としなければ、またナチスのような存在が台頭する、というわけである。
私は製薬企業の副作用監視部門に所属していたのだが、この「副作用監視」の仕事は他の部署よりも多くの規則があり、例えば期限までに副作用症例情報を報告できなければ罰せられるといったルールがとても多かったと記憶している。それ故に朝から晩まで懸命に規則に則った仕事を繰り返す毎日で、入社してから数か月のうちに「自分が何のためにこの仕事をしているのか」すらわからなくなってしまうのが常である。むしろ新入社員の方が「患者さんのために」だとか「副作用で苦しむ人を減らしたい」などと本質を語れるのだが、中堅社員ともなると「目をつぶっても手順通りの行動ができる」、半自動的なソルジャーとなり、その逆に「そもそもどうしてその行動をしているのか」わからなくなってしまう。これがむしろ“一人前”と目される―。
さすがにこうした話を現役時代には出来なかったのであるが、何より自分の頭で考えるクセをつけましょうという運動はアーレントの唱える「悪の陳腐さ」を乗り越えるものだと確信しており、これからもずっと発信していきたいと思っている。
以上


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