BL0192 帰納法(induction)

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仁和寺は「徒然草」第52段「仁和寺にある法師」に登場することで知っていたが、訪問するのは今回が初めてである。建立が仁和4年ということで「仁和(にんな)と名付けられたそうだが、この仁和4年というのが西暦でいうと888年である。

今回、訪れたのはその888年建立とつながる「令和8年8月8日限定」という御朱印を貰うためである。とは言っても私が欲しいというよりも御朱印集めが趣味、という姉にプレゼントしてあげようと思い立ったからである。それに「貰う」といっても正確には「購入する」である。記念の御朱印を購入するための列は結構、長い列である。

そもそも御朱印というのは本来、写経した経典を神社に納めた証明としてもらうものであって、今のように“参拝記念”のようなカジュアルなものではない。信仰心もない私がいたずらに御朱印集めをしたらむしろ失礼というものだろう。

そうはいっても御朱印は人気のようである。感覚的にはどのお寺に行ってもあるので、つまりは「お寺には必ず御朱印がある」と結論付けてもいいだろうか。このように、いくつもの同じ経験や観察をしたうえで物事の共通点を見出し一般化するアプローチのことを帰納法(きのうほう)という。ご存知の通り帰納法は演繹法とならぶ論理学アプローチの“二大巨匠”である。

しかしながら一方で、「帰納法は論理学なのだろうか?」というツッコミもよく聞くのである。前述したような「お寺には必ず御朱印がある」という帰結も、小さいお寺にいけば御朱印どころか人影すらないところもあり、そうであれば「お寺には御朱印があるとは限らない」が正しいだろう。つまりは100のお寺を見て回って全て御朱印があったとしても、「お寺には必ず御朱印がある」と結論付けるには至らない、だから論理学ではない、というわけである。では、「お寺には必ずお賽銭箱がある」に関してはどうだろう。

確かに帰納法をもってして「証明された」とするのは無理がある。色んなところで「水は100度で沸騰する」ことが観察されたとしても、高地で測定してみたら100度より低い温度で沸騰することがわかれば「水は100度で沸騰するとは限らない」となる。スワンが全て白色、と信じられていた時代に、オーストラリア大陸で黒いスワンが見つかると「スワンは白い」が否定され、「スワンは白色とは限らない」となる。帰納法とは例外ひとつで覆る(くつがえる)、もろい面があるというわけだ。

むしろ帰納法の誕生に意義があったのは、帰納法が登場するまでは「えらい人がそう言ってるから正しい」という、無批判に信じる姿勢が宜しくない、と正したことにあるのだろう。実践的な帰納法を確立したのは「知は力なり」の言葉で知られる、イギリスの哲学者ベーコンである。エラい人が言ったからそれが正しいとするのは「権威に訴える論証」であり、同じように「多数派に訴える論証」「伝統に訴える論証」など、私たちが根拠とするものは“証明された”とまではいかないもろさがある。そうであってもそれなりに判断の拠り所にはなるのであり、帰納法というアプローチは“証明”にはなりようがなくても、有意義であることは確かだろう。

頂いた仁和寺の記念御朱印を姉にプレゼントしたら、とても喜んでくれた。「御朱印を姉にプレゼントすると喜ぶ」、とまではいかなくても「記念の御朱印を姉にプレゼントすると喜ぶ」、くらいは常に言えるような気がする。でも、1回のサンプルだけでそれを断定するのはベーコンに怒られそうだな。

以上

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