BL0193 進化(evolution)

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マスメディアの大げさ表現は今に始まったことではないが、気軽に「神(かみ)」と表現したり「超(ちょう)」という言葉を付け加えたりするというのはどうなのだろう、と思ったりする。クイズ番組で登場した「超難問」という表現は、確かに難しめな問題ではあるが、それでも「難問」とすればそれだけで話が済むだろう。

「しすぎ」という表現も乱発している。「美人すぎる市議」とされた人が話題になったのは2007年のことだそうだが、埼玉にいた頃よくコマーシャルで聞いた「うまい、うますぎる」というフレーズのおまんじゅうは恐らくそれよりも歴史が古い。食べてみたこともあるが、確かにまずくはない。まずくはないが美味さが過ぎて困るほどではない。

ただ、私も講演や執筆業をなりわいにしているので「大げさな表現はけしからん」という論調に全面的に賛同する立場でもない。こうした仕事はそもそも多くの人の感心を集めなければビジネスとして成立しないのであって、然るにマスメディアというビジネスは「人の感心を集める」ことが必要不可欠であり、どうしても大げさ表現になりがちなのはやむを得ないところでもあるだろう。講演タイトルや書籍タイトルは集客したいというスポンサーの意向があり、基本的に私から異論を唱えたりはしない。

しかしながら大げさ表現の中で唯一、私が気になる表現があり、それが「進化」である。ご存知の通りこれはダーウィンの進化論からきているものであり、もともとは生物の形質が世代を経る中で変化している現象のことを指す言葉である。

ところが最近は特にスポーツ中継の分野で選手の成長のことをもってして「進化」と表現するきらいがある。野球であればホームランの数が増えた選手や、直球のスピードが速くなった選手に対して「進化しましたね」などと言う。テレビ局側のアナウンサーならばまだしも、現役を引退した解説者までもが気軽にこのように発言するところをみると、どうやらマスメディアに限らず体育会系では「進化」という表現が進歩や成長の最上級として日常使いされているのだろう。

「進化」という言葉を“大げさ表現”として使うことに対する私の違和感は、そもそもダーウィンの言ったevolution(進化)というのはむしろ「適応」の意味合いが強く、決して進歩であるとか成長であるといった概念の延長線上にはない言葉だからである。

そこには「成長できない者、能力の劣る者は淘汰される」という捉え方によって優生学やナチズムにつながったという黒歴史もある。ユダヤ人の虐殺は多くの人が知っているが、ナチスドイツ政権下では、障害者や同性愛者もまたユダヤ人と同じ迫害にあっている。

日本においても優生学を旗印として、「あなたは子供を産んではいけません」とされた人たちがいる。生物多様性という概念が浸透した現代にあって、優生学がいかに不適切なものであったかは明らかにされてはいるが、こうした偏見や差別が地球上でゼロになったというわけではないだろう。

「進化」という言葉を聞いて、そのような思考が脳内をめぐるという私はちょっとした変人なのかもしれない。しかしながら、このような思いを巡らす人は恐らく私だけではない筈だ。ただ、「進化という言葉には進歩の意味合いがない」ことを広めるための運動をしたら、かえって優生学やナチズムの広告効果になるやもしれず、言葉の意味合いの変化については”自然淘汰“に任せるより仕方なさそうではある。

以上

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