BL0188 過剰思考(overthinking)

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今朝ほど読んだ大手新聞社の記事に「本とは何か」とタイトルされていたものがあった。記事は“「本を読む」とはどういうことか?”とある。何だかおかしい、と思うのはむしろ私の感覚がおかしいのかもしれないのだが、「そこ、悩むところか?」と突っ込みたくなる。本を読むとは読みたいという衝動や事情にかられてそうするのであって、このように切り取って命題のようにしする話ではないだろう。

そうは言っても、同じようなタイトル記事を見つけることは珍しいことではない。最近では「“推し”とは何か?」なんて切り取って、それをさも哲学的思考したりする。何だか思考遊びのような趣向である。

ならば「顔を洗うとはどういうことか?」「味噌汁を飲むとはどういうことか?」等々、日常の全てが哲学的命題として取り上げることが出来るということになる。アホか、といったら失礼かもしれないが、別に悩まなくてよいようなことを悩むような行動は「過剰思考」と表現される。いやむしろ、overthinkingという原語なのでシンプルに「考えすぎ」とした方が通りがいいだろう。

哲学分野ではこのような「悩まなくていいことに悩んでいないか」という哲学分野内からのツッコミもある。例えば「生きるとは何か」「生きるとはどういうことか」といった命題を誰かが意図的に“作成”したとしよう。確かにこのようにして切り取れば高尚で知的にみえるだろう。そして様々な捉え方があるので議論は盛り上がるのだろうが、それって本当に有意義な時間なのかどうかはちょっと怪しかったりもする。

ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」とした。「宗教とは何か」「美とは何か」「論理とは何か」・・・。こうした悩みは議論に値しないということなのではなくて、論理学一般の命題のようにクリアカットに命題として正しく表現できないのである。

例えば「生きるとは何か」について悩んでいる人はたくさんいるに違いないのだが、その悩みの先に万人が納得できるような答えを得ることは出来ないだろう。ヴィトゲンシュタインの言葉を借りれば、この命題自体がイケてないということになる。そうではなくて、「私にとって善く生きるとは何か」のように命題を提示するのであれば、それは正しく議論できる余地があり、それこそ議論の末に正解とまではいかなくても何らかのヒントにつながるといった、悩んだ甲斐のある“成果”が生まれようというものだ。

本ブログの読者諸氏にあっても「ブログとは何か」「ブログを読むとはどういうことか」など無用なことは考えずに読み流し、読み飛ばしてもらったらこちらとしてはそれで構わないのである。

以上

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